オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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AM産業と業界誌の謎(2)

2022年05月08日 19時52分45秒 | 歴史

前回は、4つのAM業界誌紙

 ◆「アミューズメント(新聞形式)」:発行者不明
 ◆「全日本遊園」:全日本遊園施設事業協同組合
 ◆「アミューズメント(雑誌形式)」:全日本アミューズメント協会
 ◆「アミューズメント産業」:全日本遊園協会

に触れ、「業界誌は業界団体の機関紙だが、その業界団体がコロコロ変わっていてなにがなんだかよくわからない」と言う趣旨を述べました。

そこで、日本のAM業界団体の歴史を調べてみたところ、完全に解明するには至らなかったものの、それでもある程度はわかったので、今回はAM業界団体の変遷を備忘録として残しておきたいのですが、その前に予備知識として、日本のAM業界の成り立ちをごく簡単におさえておきたいと思います(文中敬称略)。

大正時代から自動販売機などを製作販売していた遠藤商会(後の日本娯楽機製作所/ニチゴ)の社長、遠藤嘉一(1899~2001、以下遠藤)は、昭和3年(1928)、宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)で、係員が料金を受け取るとスイッチを入れるドイツ製のキディライドを見てインスパイアされ、翌昭和4年(1929)、コインを投入すると自動的に揺動を開始するキディライドを開発しました。

昭和5年(1930)、遠藤は、翌年にオープンを予定している浅草松屋に遊戯場を設置したいとの依頼を受け、設計技師たちと相談して、遊戯場を「スポーツランド」と命名することにしました。スポーツランドには、キディライドやミュートスコープ、菓子自販機などのコインマシンのほか、屋上には8人乗りゴンドラが付いたロープウェイも設置され、更に少しのちには豆機関車や、現在の遊園地でも見られる「コーヒーカップ」のような動きをする乗り物などの遊園施設も設置されました。

日本のAM産業はこの辺りから始まるわけですが、同時期には大型遊園機器の先駆者とも言うべき土井万蔵や、後に東洋娯楽機(後のトーゴ)を創立する山田貞一森周一若田部繁之助ら、その後のAM業界発展のキーパーソンとなる人たちが、遠藤を中心として互いに親密な関係にあったそうです。

このように、日本のAM業界は遊園施設をホームグラウンドとしていたことから、大型遊園施設とコインマシンは同じ産業とみなされており、現在も刊行が続く「アミューズメント産業」誌には大型遊園施設メーカーの広告が掲載されています。

最近のナウなヤングは、ビデオゲームと言うと家庭用ビデオゲームに限定して考えてしまうケースが少なからずあるようですが、対するださいオジンだって、コインマシンばかりがAM産業と誤解してはいないかという反省はあっても良いかもしれません。

遠藤の日本娯楽機製作所が昭和10年(1935)ころに制作したカタログ「日本娯楽商報」には、自社の娯楽機の納入先40カ所の名称が並んでおり、スポーツランドから始まった日本のAM産業の拡大を示しています。

昭和10年(1935)ころに制作された日本娯楽機製作所のカタログ「日本娯楽商報」の表紙(上)と納入実績のリスト(下)。

発展しつつあった日本のAM産業でしたが、昭和16年(1941)に勃発した太平洋戦争により一旦は活動がほぼ止まってしまいます。しかし、終戦から1年後の昭和21年(1946)には浅草松屋が再開してスポーツランドも再開にこぎつけ、翌昭和22年(1947)には東洋娯楽機が浅草花やしきを再開(再開直後は合資会社浅草花屋敷との共同運営で、昭和24年(1949)にから単独経営となり、「花やしき」に改名された)しています。土井万蔵も、昭和23年(1948)には活動を再開し、朝日新聞社が主催した「復興博覧会」に飛行塔や観覧車、回転ジープなどを出展しました。経済白書が「(昭和35年の消費内容で特徴的なこととして)レジャーブームの兆しが見えている」と指摘したのは昭和36年度(1961)版ですが、戦前に活躍していた人たちは、戦後まもなくからもうAM産業に新たな息吹を吹き込んでいたのでした。

さて、きわめて大雑把に日本のAM産業界を辿ってきましたが、実は太平洋戦争が勃発する直前の昭和16年(1941)5月には、遊戯機の安全管理にあたることを目的とする業界団体「児童遊園地協会」が設立されています。これは遠藤が実質的なリーダーとなっていたとのことですが、戦乱のさなかである昭和18年(1943)に自然解散してしまいました。

戦後、AM業界は再び活動を開始しましたが、昭和25年(1950)物品税の制度が改正され、遊園施設にも過大な税が課されるようになってしまいました(サラリーマンの月収が1万3千円ほどだった当時、セガは月に20万円くらいの物品税を支払っていたらしい)。遠藤はここでも業界のために大きな働きをしています。はじめは個人的に税理士に依頼して一部の物品税を免除するだけでした。しかし、一人で頑張っているだけでは限界があるとして、昭和33年(1958)に業界団体「日本遊園施設協会」を設立し、組織として物品税撤廃に取り組みます。遠藤はその運動に相当の私財も注ぎ込んだそうです。その結果、昭和37年(1962)に、大部分の遊戯機械の物品税撤廃を実現しました。

その日本遊園施設協会は、将来的に全国組織とすることを前提に、昭和42年(1967年)に解散するのですが、紆余曲折(その内容は不明)があり、すぐには実現できなかったようです。その間、関東と関西のそれぞれに団体が結成されていたそうです。これらのうち、関西の団体についての詳細はわからないのですが、関東の団体は日本遊園施設工業協会と称し、昭和43年(1968)に設立されています。

全国組織が実際に実現したのは昭和46年(1971)で、名称は「日本遊園施設協会」を引き継いでいます。会長には遠藤が就任しました。

すでにいろいろな団体名が出てきて混乱してきたので、ここまでに出てきた業界団体をまとめておきます。

①児童遊園地協会
 設立:昭和16年(1941) 解散:昭和18年(1943)
 目的:遊戯機の安全管理
 備考:遠藤嘉一が実質的なリーダー。
 
②日本遊園施設協会
 設立:昭和33年(1958) 解散:昭和42年(1967)
 目的:物品税撤廃を業界として運動するため
 備考:この段階ではまだ全国的な組織にはなっていなかった。

③日本遊園施設工業協会
 設立:昭和43年(1968) 解散:不明(昭和46年(1971)以前)
 目的:詳細不明
 備考:関東の業界団体。

④名称不明
 設立:不明 解散:不明(昭和46年(1971)以前)
 目的:詳細不明
 備考:関西の業界団体。

⑤日本遊園施設協会
 設立:昭和46年(1971) 解散:調査中
 目的:AM産業の全国組織として
 備考:遠藤嘉一が会長に就任。

日本のAM業界の成り立ちが思いのほか長引いたので、続きは次回とさせていただくことにいたします。

(つづく)


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