タイトーが1978年に発売したスペースインベーダーは、後世の語り草となる一大ブームを巻き起こしました。
スペースインベーダーのフライヤー。当時、アップライト筐体は、タイトー製とバーリー・ミッドウェイ社製の2種類が出回っており、ビーム砲の操作系が、バーリー・ミッドウェイ筐体では二つのボタンで行い、タイトー筐体ではジョイスティックで行っていたように記憶しているが、このフライヤーはボタン仕様になっている。慣れの問題もあるとは思うが、素早い操作をするにはジョイスティックの方が圧倒的に優れていた。
年少者にとっては、それまでコインオペレーションのゲームと言えば遊園地や商業施設の屋上、もしくは繁華街にでも行かなければできない、一種のハレの日の特別なイベントであったのですが、このブームで客が激減したパチンコ店ばかりか、私鉄沿線の小さな商店街でも、にわかゲームセンター(そのような店舗は「インベーダーハウス」などと呼ばれました)に転業する一般商店が雨後の竹の子のように現れ、ビデオゲームはすっかり日常のものとなりました。
ワタシも、当時行きつけの喫茶店にテーブル筐体のスペースインベーダーが設置されたこともあって、もちろん熱中しました。そのうち、文庫本を読むと文字の並びがインベーダーの列に見えるようになって、「こりゃ、いかんなあ」などと自省することもありました。
このブームが社会に与えた影響がいかに大きかったかを表す逸話として、ネット上では100円硬貨を66億円も増産したという言説が見られます。また、日本中の100円硬貨が不足したという新聞報道を実際に読んだ覚えがワタシにもあります。その真偽についてはこちらで検証しているので参照していただければと思いますが、簡単にまとめると、その新聞記事はゴシップ的であると評価するものの、ブームのさなかに国内の100円硬貨の流通量にいくらかの異変が見られたこと自体は事実のようです。
スペースインベーダーは、従来の「パドル&ボール」ゲームのボールを弾に置き換えた、大胆なアレンジであったと思います。しかし、それだけではミスの要素がないため、消すべきブロックに相当するインベーダーキャラにも弾を発射させて、これを受けることでミスとするという、コペルニクス的と言うかコロンブスの卵的転回の発想により、シューティングゲームという新しいジャンルが登場したと、ワタシは考えています。
スペースインベーダーの大ヒットにより、自分のところだけでは需要に応じきれないタイトーは、いくつかの同業者にライセンス生産を許しましたが、類似品やデッドコピー品も大量に世に出回りました。当時のもう一つの大手メーカーであったセガも、「スペースアタック」(1979)を始めいくつかの類似品を発売していますが、当時としては珍しいカラー画像であったにもかかわらず、ヒットはしませんでした。のちにセガの人に聞いた話では、スペースアタックは、キャラクターの造形と、ヒットしなかったことに対する自嘲の意味も込めて、社内では「豚殺し」と呼ばれていたそうです。
セガ製のスペースインベーダーの類似品で、スペースアタックの続編となる「トリプルアタック」(1979)のフライヤー。これもヒットしなかった。
スペースインベーダーのブームは、1979年の夏ころより沈静化し始め、以降、ゲーム機メーカーは、ポストインベーダーの開発に迫られることになります。
(次回、たぶん最終回)
スペースインベーダーのフライヤー。当時、アップライト筐体は、タイトー製とバーリー・ミッドウェイ社製の2種類が出回っており、ビーム砲の操作系が、バーリー・ミッドウェイ筐体では二つのボタンで行い、タイトー筐体ではジョイスティックで行っていたように記憶しているが、このフライヤーはボタン仕様になっている。慣れの問題もあるとは思うが、素早い操作をするにはジョイスティックの方が圧倒的に優れていた。
年少者にとっては、それまでコインオペレーションのゲームと言えば遊園地や商業施設の屋上、もしくは繁華街にでも行かなければできない、一種のハレの日の特別なイベントであったのですが、このブームで客が激減したパチンコ店ばかりか、私鉄沿線の小さな商店街でも、にわかゲームセンター(そのような店舗は「インベーダーハウス」などと呼ばれました)に転業する一般商店が雨後の竹の子のように現れ、ビデオゲームはすっかり日常のものとなりました。
ワタシも、当時行きつけの喫茶店にテーブル筐体のスペースインベーダーが設置されたこともあって、もちろん熱中しました。そのうち、文庫本を読むと文字の並びがインベーダーの列に見えるようになって、「こりゃ、いかんなあ」などと自省することもありました。
このブームが社会に与えた影響がいかに大きかったかを表す逸話として、ネット上では100円硬貨を66億円も増産したという言説が見られます。また、日本中の100円硬貨が不足したという新聞報道を実際に読んだ覚えがワタシにもあります。その真偽についてはこちらで検証しているので参照していただければと思いますが、簡単にまとめると、その新聞記事はゴシップ的であると評価するものの、ブームのさなかに国内の100円硬貨の流通量にいくらかの異変が見られたこと自体は事実のようです。
スペースインベーダーは、従来の「パドル&ボール」ゲームのボールを弾に置き換えた、大胆なアレンジであったと思います。しかし、それだけではミスの要素がないため、消すべきブロックに相当するインベーダーキャラにも弾を発射させて、これを受けることでミスとするという、コペルニクス的と言うかコロンブスの卵的転回の発想により、シューティングゲームという新しいジャンルが登場したと、ワタシは考えています。
スペースインベーダーの大ヒットにより、自分のところだけでは需要に応じきれないタイトーは、いくつかの同業者にライセンス生産を許しましたが、類似品やデッドコピー品も大量に世に出回りました。当時のもう一つの大手メーカーであったセガも、「スペースアタック」(1979)を始めいくつかの類似品を発売していますが、当時としては珍しいカラー画像であったにもかかわらず、ヒットはしませんでした。のちにセガの人に聞いた話では、スペースアタックは、キャラクターの造形と、ヒットしなかったことに対する自嘲の意味も込めて、社内では「豚殺し」と呼ばれていたそうです。
セガ製のスペースインベーダーの類似品で、スペースアタックの続編となる「トリプルアタック」(1979)のフライヤー。これもヒットしなかった。
スペースインベーダーのブームは、1979年の夏ころより沈静化し始め、以降、ゲーム機メーカーは、ポストインベーダーの開発に迫られることになります。
(次回、たぶん最終回)