オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(2)

2017年01月14日 16時31分38秒 | 歴史
◆前回のあらすじ:
1969年、sigmaが始めた「カスタム方式」は、業界では「シグマ方式」と呼ばれた。業界が疑問視したsigmaのチャレンジは成功をおさめ、1972年、これを模倣する同業他社が現れたころから、業界ではシグマ方式を「メダルイン・メダルアウト方式」と呼ぶようになるが、必ずしも統一された呼称ではなく、「コインゲーム」と呼んだ例も残っている。

1973年、メダルイン・メダルアウト方式に参入する業者の増加に伴い、業界団体は、警察庁の指導を得て、メダルイン・メダルアウト方式による営業が賭博や青少年の非行などに繋がることを予防するために遵守する方針である「メダルゲーム場運営基準」を策定しました。この当時、ゲームセンターはまだ風俗営業ではなく、警察による監督管理を受ける業種ではありませんでしたが、以前から存在していたゲーム機による違法な賭博を取り締まるのは警察であるため、業界は敢えて警察の懐に飛び込んで健全営業に徹することをアピールし、金の卵を産む鶏を守るとともに、警察からの必要以上の干渉を避けようとしたのでしょう。これが「メダルゲーム」という呼称を広める助けになったであろうことは想像に難くありません。そしてこの言葉は、1974年中にはほぼ完全にAM業界に定着します。

ところで、ゲーム機メーカーのタイトー社がメダル機の開発・販売に参入するのはその翌年の1975年からですが、自社が開発するメダルゲーム機のことを、「ミモ」と呼んでいたようです。これは、メダルイン・メダルアウト(Medal In Medal Out)の頭文字を取ったものです。


タイトー社が1980年に発売した「マジックルーレット」のフライヤー。最上段に「Taito Mi-Mo Machine」の文字が見える。TAITO社は1986年までメダルゲームのフライヤーのデザインを概ね統一していたが、1981年の途中からこの部分を「MEDAL GAME MACHINE」に変更している。

1981年以降、タイトー社のフライヤーから「Mi-Mo」の文字は消えましたが、1990年代のはじめ頃、タイトー社の若い社員と話をする機会があった時に、その人が当たり前のように「ミモ」と口にしていたところを見ると、社内用語としてはしぶとく残っていたようです。そのタイトー社は、現在は残念ながらメダルゲーム機の開発から撤退しており、もはや「メダルイン・メダルアウト」の名残を聞く機会はほとんどなくなってしまいました。

一方、パチンコ業界では、AM業界にメダルイン・メダルアウト方式が出現する以前に、既に「メダル」を使用する「オリンピア」機を擁していましたが、オリンピアが新たなレジャーとして注目を浴びた1966年の時点で、「メダルはメダルと呼び、コインと呼んではいけない」という了解事項がありました。


デイリースポーツ1966年12月21日に掲載されたオリンピアゲームの紹介記事の一部。「コインと呼んではいけない」との記述がある。

これは、「コイン」という言葉には「硬貨(=通貨)」の意味があるため、ギャンブルではないオリンピア遊技機の用語として適切でないということで、業界が取り決めたのか、はたまた監督官庁である警察から指導があったのかは定かではありませんが、とにかくゲームに使用するコイン状のものはメダルと称することになっていたようです。このとき、「トークン」あるいは「スラグ」が採用されなかった理由はわかりません。もしかしたら、馴染みのない外来語では浸透しないと考えたのかもしれませんし、また、沖縄で事実上のギャンブル機であった「スラグマシン」を連想されることを避けようとしたのかもしれません。いずれにせよ、メダルゲームができた初期のAM業界では、風俗営業界では常識であったこのような意識がまだ希薄だったようです。

現在でも、メダルゲームのことを「コインゲーム」と呼んでしまう人がときどきいますが、少なくとも業界的にはこの呼称はNGです。


◆これまでのまとめ
1966 風営機「オリンピア・スター」が話題に。トークンは「メダル」と呼ぶ。
1969 sigma、渋谷にゲームファンタジア渋谷カスタムをオープン(3月)。
1970 sigma、大田区池上にゲームファンタジア・カスタムをオープン。
    sigma、自らの運営方法を「カスタム方式」と命名(正確な時期は不明)。
1971 sigma、新宿歌舞伎町にゲームファンタジア・ミラノをオープン(12月)。
1972 カスタム方式を模倣する同業他社現る。
    AM業界は「カスタム方式」を「メダルイン・メダルアウト方式」と呼ぶも、
    「コインゲーム」と記述する業界誌の記事も存在し、まだ共通の
    了解事項とはなっていなかった。
1973 AM業界、警察の指導を受け「メダルゲーム場運営基準」策定。
    大阪府警、「メダルゲーム場の営業指導要領」を発表。
    「メダルゲーム」という言葉が現れるが、まだ定着と言うには至らない。
1974 セガ、初の国産メダルゲーム機「ファロ」「シルバーフォールズ」の広告に
    「SEGAマークのついたメダルゲーム機です!」とのコピーを使用(1~2月)。
    業界誌紙の記述も「メダルゲーム」でほぼ統一される。
1981 タイトー、自社のメダルゲーム機のフライヤーから「Mi-Mo」の記述を外す。

このシリーズはもう1回だけ続きます。

「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1)

2017年01月14日 00時02分31秒 | 歴史
日本のAM業界には「メダルゲーム」というジャンルがあります。しかしこの呼称は、英語を母語とする人たちには何のことなのかさっぱり見当もつかない、意味の通じない言葉です。

「メダルゲーム」の「メダル」は和製の用法で、英語で同様の概念を言う際には、「トークン(token)」または「スラグ(slug)」とするのが正しいようです。そう言えばセガ社は、1974年頃に発売していたメダル貸出機の商品名を「スラグ・ディスペンサー」と称していました。また、米国が統治していたころの沖縄で流行したスロットマシン遊技機(今でいうパチスロの「沖スロ」の原点らしい?)は、現地では「スラグ・マシン」と呼ばれていました。


1974年頃のセガのメダルゲームカタログより。筐体には「メダル貸出機」とあるが、商品名は「セガ・スラグ・ディスペンサー」と表記されている。

また、「メダルゲーム」という呼称は、その業態が発生した当初からあったわけではありません。今回は「メダル」及び「メダルゲーム」という用語が生まれた経緯をメモしておこうと思います。

1969年3月、sigma社は、換金できない専用トークンでスロットマシン類を遊ばせる営業の実験店「ゲームファンタジア渋谷カスタム」を、渋谷のボウリング場の一角に設けました(関連記事:メダルゲームの曙を見た記憶)。

この「カスタム」には、「洗練された雰囲気を好む都会人向けにカスタマイズされた娯楽場」という意味が込められており、sigma社はこの運営方法を「カスタム方式」と名付けました。なにしろこの時代は、TVのクイズ番組で「夢のハワイ旅行」などという惹句が謳われるほど、多くの日本人にとって海外はまだまだ遠い存在だったので、カジノのスロットマシンがずらりと並ぶロケーションは、憧れの海外の雰囲気が感じられたことでありましょう。

しかし、カスタム方式が現れる以前から、日本には既に海外のギャンブルゲーム機を使用した賭博営業が新聞沙汰になるほどには浸透していたので(関連記事:ロタミントの記憶)、多くのAM業界人は、換金できないsigmaのこのチャレンジには大いに懐疑的でした。業界はカスタム方式を「シグマ方式」と呼びましたが、この呼称は、誰もsigmaに追随する者がおらず、sigmaただ一社が孤軍奮闘していたことを示しているようにも思われます。しかし、そんな業界の冷ややかな見方をよそに、プレイヤーは喜んでシグマ方式を受け入れ、その結果sigma社は、都内にシグマ方式の店舗を次々と新規開店しました。

1972年になると、そろそろシグマ方式が商売として成立する見極めがついたのか、ついにこれを模倣する同業他社が現れ始めます。このことから、ワタシは、今で言う「メダルゲーム」というジャンルが業界に確立されたのは1972年と考えています。

「シグマ方式」が一般化すると、そのような業態は「メダルイン・メダルアウト方式」と呼ばれるようになりますが、「コインゲーム」と呼ばれることもありました。また、トークンの呼称についても、少なくとも1973年時点では、元祖のsigma社でさえ「コイン」と称していた例が見られるように、この時点ではまだ「メダル」「メダルゲーム」という用語は定着していませんでした。


AM業界誌「アミューズメント産業」1972年3月号の一部。メダルゲームを「コインゲーム」と呼んでいる(傍線部)。


「アミューズメント産業」1974年1月号より。sigma社「ゲームファンタジア・イエローサブマリン」の店内の様子の写真。メダル貸出機に「ゲーム・コイン貸出機」とある。余談だが、画面左に見えるスロットマシンが米国ミルズ社製である。ワタシはメダルゲームとしてミルズ社の機械を見た覚えがなく、これは非常にレアな証拠写真だと思う。

長くなりそうなので、以下次回に続く。