315 山ざとは冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思えば
冬の歌とてよめる
源宗于朝臣
ただでさえさびしい山村は、冬になると、人は来なくなるし、草は枯れるし、でいっそうさびしい
源宗于(ミナモトノムネユキ):臣籍降下した光孝天皇の孫。古今集に6首採録。示した歌は百人一首にも採録。
今日は立冬(陰暦9月15日)。なので、巻六冬歌の二番目を取り上げた(冬歌の一番目は9/27に示した)。
「いよいよ冬が始まるぞ」というような、緊張感がよく表現されていると思う。
つれづれ思っているのだが、どの歌集であっても、示される歌の順番には細心の注意がはらわれているはずだ。
では古今集ではどうか?巻六のはじまりが上であって、では巻五秋歌下の最後は、どんな歌か?
313 道しらば尋ねもゆかん もみぢばをぬさとたむけて秋はいにけり
おなじつごもりの日よめる
みつね
もみじのはっぱを神様へのおそなえにして、秋さん(擬人化している)は去ってしまうのですね~。彼の行く道がわかれば追っていきたいのですが~(まことに残念、名残惜しい)。
この前の歌(つまり、312)が貫之の歌で、「ながつきのつごもりの日、大井にてよめる」とあるので、陰暦九月末日に詠んだ、とわかる。
そして、詠手は、みつね、つまり、凡河内躬恒だ。
やはり、というか、上に示した巻間のつながりは絶妙、と思うのですが、いかが?
長話になりますが、源宗于の歌もなかなか味があります。
788 つれもなくなり行く人の言の葉ぞ、秋よりさきのもみぢなりける
題しらず
源宗于
(わたくしはどうも現在)冷たくあしらわれているようです。秋になる前に咲いた、もみじだったと気づくべきだったのに~。
これ、巻第十五恋歌五にあるので、振られた女性に対する歌と理解すべきなのでしょう。しかし直感としては、出世できない自分の不遇を嘆いているように思えるのです。
冬の歌とてよめる
源宗于朝臣
ただでさえさびしい山村は、冬になると、人は来なくなるし、草は枯れるし、でいっそうさびしい
源宗于(ミナモトノムネユキ):臣籍降下した光孝天皇の孫。古今集に6首採録。示した歌は百人一首にも採録。
今日は立冬(陰暦9月15日)。なので、巻六冬歌の二番目を取り上げた(冬歌の一番目は9/27に示した)。
「いよいよ冬が始まるぞ」というような、緊張感がよく表現されていると思う。
つれづれ思っているのだが、どの歌集であっても、示される歌の順番には細心の注意がはらわれているはずだ。
では古今集ではどうか?巻六のはじまりが上であって、では巻五秋歌下の最後は、どんな歌か?
313 道しらば尋ねもゆかん もみぢばをぬさとたむけて秋はいにけり
おなじつごもりの日よめる
みつね
もみじのはっぱを神様へのおそなえにして、秋さん(擬人化している)は去ってしまうのですね~。彼の行く道がわかれば追っていきたいのですが~(まことに残念、名残惜しい)。
この前の歌(つまり、312)が貫之の歌で、「ながつきのつごもりの日、大井にてよめる」とあるので、陰暦九月末日に詠んだ、とわかる。
そして、詠手は、みつね、つまり、凡河内躬恒だ。
やはり、というか、上に示した巻間のつながりは絶妙、と思うのですが、いかが?
長話になりますが、源宗于の歌もなかなか味があります。
788 つれもなくなり行く人の言の葉ぞ、秋よりさきのもみぢなりける
題しらず
源宗于
(わたくしはどうも現在)冷たくあしらわれているようです。秋になる前に咲いた、もみじだったと気づくべきだったのに~。
これ、巻第十五恋歌五にあるので、振られた女性に対する歌と理解すべきなのでしょう。しかし直感としては、出世できない自分の不遇を嘆いているように思えるのです。