旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

教育基本法改正の年 其の壱拾

2007-01-16 08:41:14 | 教育
■何処とは特定しませんが、本屋の数より無人の金貸し機械とセットになっているパチンコ屋さんの方がずっと多い地方都市が日本中に溢れております。競馬・競輪・競艇の施設よりも立派な図書館を持っている都市も有りませんなあ。さて、どうやって人格を磨きましょうか?とにかく、「あらゆる機会に、あらゆる場所において」勉強しなければならない国家が目標ですからなあ。熱心に社会人教育に努力しても、自己満足で終るのならば動機が弱くなりますから、「その成果を適切に生かす」施設を作らねばならないそうです。はっきり言ってしまえば、恥も外聞も無く「個展」を開く金持ちの暇人や、所定の税金を消化するために全国で開催される展覧会や発表会が、毎日のように全国のハコモノを利用して開催されることになるのでしょうか?残念ながら、観客よりも参加者の方が多いようなヤラセ大会を喜ぶのは、担当している役人だけですぞ!

■沢山のオーバー・ドクターを抱え込んでいる日本の大学には、生涯教育で見事な業績を残したとしても、「余所者」を講師に呼ぶ余地など有りません。まさかとは思いますが、維持費が大変な「公民館」では足りずに、これからも地方に名前だけの大学をどんどん増設して、「生涯学習」の成果を披露する人を教員にして、鑑賞する人を生徒にして補助金を消化するような恐ろしい事を計画しているのではないでしょうな?!そんな事をやっている暇が有ったら、「ゆとり教育」にまで至った戦後の文部行政の点検と反省に人材と予算を使った方が良いのではないでしょうか?

■第4条は「教育の機会均等」に関する規定です。


第4条第1項
すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されない。


■この条項は旧法にも二つの項目を立てていました。


…すべての国民はひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的理由又は門地によって、教育上差別されない。


細かい芸ですが、旧法では「…ならないものであって」が「なければならず」と平仮名が少し減っております。そして、「経済的理由」が、何故か「経済的地位」になっていますなあ。「理由」が解消されて目出度し目出度しかと思ったら、勝ち組の「地位」が固定されていると文科省内の革新派?が頑張った結果なのかも知れません。教育を受ける権利を規定する時に、「理由」ではなく「地位」に留意しなければならなくなっているのは、私立中学受験の加熱に始まり、東京大学の学生が富裕層の出身だと分かってしまったのですから、この改正が必要だったのでしょう。

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教育基本法改正の年 其の九

2007-01-16 08:40:34 | 教育
■これまで積み上げ先送りして来た選挙目当ての矛盾を、ろくな説明もしないままで、「財政再建」を錦の御旗にして開き直り始めた時代です。「地方切捨てだ!」などと野党が騒いでいるようですが、地方は田中角栄さんが政権を握った時代を除けば、ずっと切り捨てられて来たはずです。戦後の復興期から地方の過疎化は始まっていますし、核家族が大量に出現した時から「地域の崩壊」は始まっていました。そして、高度成長期が終った70年代から「家庭の崩壊」が顕著になっていたはずです。そんな嫌な予感を誤魔化すために、政府は「人口減少」という客観的なデータを隠し続け、底が抜けている年金制度を放置し、減税先行の人気取り選挙を繰り返して来たのです。

■近代国家の根幹を成している所得の再分配機能を持っている、地方交付税交付金という制度をハコモノ(借金付き)に集中させる土建政治を半世紀近くも続けると同時に、時代遅れの食糧管理法を曲解して農業の安楽死を画策したのですから、地方に夢と希望が消えて労働人口が都市部に流出し続けるのは誰でも分かっていたのでした。そして、冷厳な時の流れは、人為的な誤魔化しでは凌げなくなるほど都市部と地方との格差を一挙に露出させているというわけです。こうした時期に、「伝統と文化……をはぐくんできた我が国と郷土」を愛せ!という文言を書ける神経は大したものですなあ。

■戦争となれば、どんな情けない状態の「祖国」であろうとも、兵士は武器を持って戦うものです。別に小学校時代から「愛国心」をやんわりと教えられていた国民が好戦的になるというものでもありません。命を懸けて平和を守ると叫ぶのなら、食糧が尽き、輸入エネルギーが途絶し、金融制裁を受けるような絶望的な状況になった時には、にっこり笑って餓死か自殺をしましょう。と付け加えなければなりません。貧困と飢餓に絶望して狂気が生まれた人間集団を「教育」によって鎮めることなど不可能です。その貧困と飢餓が静かに日本全土に迫り、広がっているとしたら、『教育基本法』に抽象的な「愛国心」を盛り込むかどうか、そんな事しか議論にならない。その程度の議員しか平成の日本は持てなかったという事でしょうなあ。

■「愛国心」ならぬ「国を愛する態度」を盛り込めたのですから、一刻も早く愛すべき「伝統」と「文化」の具体的な内容と項目を列挙すべきでしょう。歴史をどう教えるのか?漢字はどう扱うのか?古典は何を教えるべきなのか?それを国会の議論を逃れて『指導要領』などで動揺させ続けるのなら、一本の法律を変えたくらいで日本の教育は「再生」しませんぞ!


第3条「生涯学習の理念」
国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られねばならない。

■これは旧法には影も形も無かった、まったく新しい「理念」です。旧法の第2条「教育の方針」に書かれていた「あらゆる機会、あらゆる場所」がこの新しい条文の中に亡霊のように浮かんでおります。旧法では、第1条で規定された「教育の目的」を実現するという話の中で「あらゆる機会、あらゆる場所」が出て来たのですが、今回は高齢化社会を念頭に置いていると思われる条文の中に書き込まれています。「社会の実現」というのも、旧法には見られない思い切った大きな話ですぞ!冷静に考え見ると、これは大変なことです。この条項は、学校という枠を飛び出して日本中に教育の網を掛けようとしていますぞ!

■「国民一人一人」と規定されていますから、日本国籍を有している者は例外無くこの「理想社会」で暮らさねばなりません。「自己の人格を磨」きましょう!まさか、日本中が道学者と求道者で満ち溢れるようになるのでしょうか?そんな事になったら風景が一変しますぞ!続いて出て来る「豊かな人生」というのは、株の裏取引やや電話詐欺で大儲けして面白おかしく暮らすという意味ではなさそうですから、おそらくは、磨き上げてぴかぴかになった人格で、本能的な欲望を制御して道徳心の塊みたいな人生を「生涯にわたって」送らねばならないようです。丁半博打から賭け麻雀、賭けゴルフにバカラ賭博、博打なのに博打ではない競馬・競艇・パチンコ、売春広告まで載っているスポーツ新聞やらエロ雑誌、不道徳な映像ソフトなどなど、こうした「人格を磨く」のに障害となりそうな物を一掃するべく、昔の特高警察や憲兵隊みたいな強力な摘発組織が動き始めるのでしょうか?


教育基本法改正の年 其の八

2007-01-16 08:39:57 | 教育

第2条第4項
生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

■これも旧法には無かった新しい「態度」です。旧法が制定された昭和22年は、最近話題になった昭和30年代よりも、更に明治や江戸の時代に近い牧歌的な風景の時代です。まして、折角、明治以来、営々と築き上げて来た近代的な施設のほとんどを米国が焼き払ってしまったのですから、「自然」だの「環境」などを考える人は皆無でした。その後、日本は高度成長時代に突入して、田畑を潰し、山を切り拓き、海岸と川岸をコンクリートで固め続けましたし、青い空が黒々とした煙で隠され、海や川に工場の廃液が垂れ流される風景が、何故か発展と成長の象徴のように考えられた狂気の時代が続きました。

■「公害」という言葉が新聞紙上を埋めるのは、旧法が制定されてから20年以上も経過した後の話です。環境問題を教育に取り入れるのは、実に結構なことでしょう。しかし、環境問題は国際的な政治問題なのですから、あまり学校でこれを取り上げると、現場の先生方が困ることになるかも知れませんぞ。全国の学校施設に放置されているアスベストを筆頭に、通学途中で生徒が目にする風景には、大人達が環境問題を真剣に考えているようには思えないものが多過ぎるからです。大規模な不法投棄をしているのは子供ではありませんし、田畑を荒廃させているのも子供ではありません。ですから、あまり子供を焚き付けると、反社会的な精神を養成する結果になりそうですなあ。

■いよいよ、国会で最も熱心な議論が行なわれた箇所になります。


第2条第4項
伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

■「とともに」という接続部分を挟んで、ほぼ同じ字数で「愛国心」と「国際協調」とを並べているのですから、この条文から「軍靴の音が聞こえる!」論を展開するのは苦しいところです。万一、野党側から見事な反論が出るようであれば、前後を入れ替えてしまっても構わなかったでしょう。懐かしい「55年体制」を髣髴とさせる与野党対決が不発に終ったのは、きゃんきゃん騒ぐ野党の中に最初から政権を担当する気が無い政治家が含まれているからだけでなく、こんなに重大な「目標」を掲げた政府が背負う任務の大きさが想像も出来ないからではないでしょうか?

■「伝統と文化」という抽象的な表現が許される事自体、日本の歴史教育が崩壊している証拠なのです。縄文と弥生、奈良から平安、平安から鎌倉、室町から江戸、そして、江戸から明治、こうした大きな歴史的な亀裂と大変化をどう考えれば良いのでしょう?歴史の継続性を考えれば、敗戦後の昭和時代すらも「伝統」になってしまっています。衣食住ばかりでなく、労働も風景も言語も、何もかもが大きな変化を被っている現実に対して、「伝統と文化」をどう扱えば良いのでしょう?「愛国」の対象を具体的に例示出来る政治家や官僚が居るのでしょうか?国会の議論が盛り上がらなかったのは、「愛国心」「伝統」に反対するには、平和精力としての社会主義を標榜する野党の立場でしか発言できない日本の悲しい政治状況が、今でも克服できていないようです。

■左翼と右翼という単純なイデオロギー対立は、煎じ詰めればレーニンか天皇か、国体打倒か国体護持か、という大枠の中に収まったまま半世紀が過ぎましたなあ。ソ連が崩壊し、北京政府が市場主義に突入し、ヴェトナムと北朝鮮が一党独裁の限界に苦しんでいるのですから、社会主義は世論を糾合して対抗勢力となる武器にはなりません。政権交代を自らの存在理由にする奇妙な民主党が、野党第一党なのですから、21世紀を貫通する国家の大計を議論する人材が国会に見当たらないのは当たり前なのですが……。

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