旅限無(りょげむ)

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教育基本法改正の年 其の七

2007-01-15 12:18:14 | 教育

第2条第2項
個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

■ここにも「態度」が出て来ます。旧法の第1条「教育の目的」に入っていた「勤労」がここに復活しているのですが、この条文は文法的に混乱が見られるので、正確な読解が困難です。分かり易く解体すると、


個人の価値を尊重する。
個人の能力を伸ばす。
個人の創造性を培う。

ここまでは順調に読解出来ます。しかし、肝腎の「態度」に雪崩れ込むまでが意味不明なのです。


自主の精神と自律の精神を養う。
職業との関連を重視する。
生活との関連を重視する。
勤労を重んずる態度を養う。

■「関連」という単語の使い方が奇妙なのです。何と何の「関連」なのか、条文を何度読んでもさっぱり分かりません!「及び」でつないでいるのですから、「職業」と「生活」との関連ではありませんから、「職業及び生活」と「関連」付けられる相手が不明なのです。「生徒自身」という隠れた相手を想定しているとしか解釈のしようが無いのですが、思い切って「職業及び生活との関連を重視し」という箇所を削除してしまうと、文章としてすっきりしますから、後からこの奇怪なパーツが捻じ込まれたような印象を受けますなあ。これは小学校低学年の理科と社会を統合廃止して設置された「生活科」の正当性を主張するためだけに挿入されたのではないか?とも深読みできますなあ。

■旧法の第1条をこの条項にそっくり移し変えた上で、「勤労と責任」と書かれていたところに、「生活科」の設置は正しい!という主張を強引に押し込んだものと判定して置きましょう。


第2条第3項
正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

三つ目の「態度」です。「男女の平等」が大いなる違和感を持って盛り込まれている、これまた奇妙な条文ですなあ。旧法では、第5条に「男女共学」を謳っているのに比べると、この盛り沢山の「態度」の羅列に埋め込まれると、産業界が『男女雇用機会均等法』を曲解したり悪用したりしている現状を考えますと、何だか「男女平等」は既に達成されたのだ!と言い張っているようにも思える条文です。因みに旧法の第5条は以下の通りです。


…男女は相互に敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。

■敗戦まで続いた明治の近代教育制度が「男女3歳にして席を同じうせず」の伝統を遵守していた事実を、徹底的に否定する、それこそ占領軍の「態度」を示すのには、男女共学制度の強要が最も効果的だったのです。「女に学問は不要だ!」というのが家父長の決まり文句でしたから、日本中の家父長がその権威を失ったのでした。『青い山脈』という小説が映画化されて大流行したり、ちょっと遅れてフォーク・ダンス活動の流れに乗って、坂本九さんが『ジェンカ』という踊り付きの歌で、全国の若者に「キスしよう!」という啓蒙活動を盛んにやったものです。当時は、高校生の妊娠騒ぎやら売春騒動に発展するとは誰も思わずに、米国型の民主主義の象徴として「男女共学」が輝いていたそうですなあ。

■でも、米国の日常生活の実態を知る日本人が増えると、彼らが「日本は封建的な男尊女卑社会だ!」と断罪している裏で、米国家庭の家計を完全に掌握して細々と支出を監視しているのが男だという馬鹿馬鹿しい事実を知ることになったのでした。どっちが男尊女卑なんだ?と問い直さないと、「伝統」の議論など出来ないはずなのですが……。この条文が本気で「男女平等」を取り上げていない印象が有るので、条文自体が不用だったのではないか?との疑義が濃厚ですなあ。

■「正義と責任」「男女の平等」、「自他の敬愛と協力」に続いて、「公共の精神」「主体的に社会の形成に参画」とぞろぞろと並べられると、何だか米国が持ち込んだ残骸を、この条項に全部放り込んで処理してしまったような印象です。その証拠に、この条項も文法的な修飾関係に混乱が見られます。その解剖作業は割愛します。

教育基本法改正の年 其の六

2007-01-15 12:17:51 | 教育

第2条 第1項
幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

■今回の基本法改正に至る流れの中で、徐々に重要性を増して来たのが「態度」という概念でした。89年の『学習指導要領』改訂の時に、突然出て来た「関心・意欲・態度」という新しい評価基準に入っていたのが「態度」です。業者テストに象徴される偏差値重視の世相を批判して考え出されたもので、ペーパー・テストの点数という結果よりも、生徒の内面に踏み込んで評価しようという新しい路線なのだと説明されたのでした。簡単に生徒の内面などと言われても、それを評価する具体的な方法が見付からない現場の教師達が困惑しました。結局は、授業の内容を理解しないのに「関心」を示す振りをする生徒、やる気をアッピールしようと騒々しく動く生徒、教師の視界の中だけで、取って付けたような「態度」を工夫する生徒が現われて、芝居染みた授業風景が生まれるだけではないのか?とも言われたものです。

■これが「ゆとり教育」と表裏一体の関係になって、自分で考える力を評価するペーパー・テストが大急ぎで開発されるようにもなりました。でも、今にして思えば、三つの新評価基準の最後に置かれていた「態度」が、君が代斉唱や日の丸掲揚という学校の「態度」に直結し、改正法の第2条第5項を導き出す準備だったとしか思えない展開を見せました。国会でも、この条項が主要な対立軸となりましたが、昔ながらの不毛な質疑が続いて本来の教育問題を考える材料などは出て来ませんでしたなあ。「愛国心」を盛り込むための入り口に「態度」というキー・ワードを埋め込んで置いて、「伝統」
という重々しい概念を経由して「型」を生み出すという壮大な計画が有るのかも知れません。

■この第2条第1項では、「真理を求める態度」を前後から挟み込むように、「知識と教養」と「情操と道徳心」が立てられています。それこそ伝統的な教育理論の基本とされる「知・情・意」に対応させれば、「知」には「関心」、「情」には「意欲」、「意」には「態度」という事になりそうです。つまり、人間の意志や心情を「態度」という「見た目」で評価して縛って行こうとしているとも解釈できるでしょう。「態度」と聞きますと、昔、坂本九さんが歌った『幸せなら手をたたこう』というのを思い出しますなあ。どうして幸せという感覚感情を「態度で示そう」としたら、「ホラ、皆で手をたたこう!」となるのか?その理由がまったく分からないまま、歌は続いて「肩たたこう!」「足鳴らそう!」などなど、幸福とは何の関係も無い「動作」を強要するように続いて行く作品でした。

■その伝で行くと、「真理を求める態度」を示そうと思ったら、一体、どうしたら良いのでしょう?最高学府の大学に行けば、その好例が見られるのでしょうか?ベストセラーを書くような人を見れば良いのでしょうか?ノーベル賞を受賞するような人が手本なのでしょうか?少なくとも、娯楽の王者であり情報伝達を独占しているようなテレビを通して、この種の「態度」を学ぶ手本は見付からないような気がしますから、御手本を探し出すのは大変です。文科省からモデルとなる人物が提出されれば良いのですが……。どうも「真理」という学問が目指す究極の目標に関する意思や情熱が、他の条文からは湧き出して来ないのです。後に出て来る「大学」に関する第7条に、もう一度だけ「真理」に言及しているのですが、迫力に欠けるのは条文を書いた人達の精神に、真理への渇望や先人達への畏敬の念が欠けているのではないか?などと、とても失礼な事を考えてしまいます。
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教育基本法改正の年 其の伍

2007-01-15 12:17:33 | 教育
■第2条は、改正前は「教育の方針」だったのを「教育の目標」に変えて、5項目が列挙される豪華版になっております。更に、以前は第3条に有った「教育の機会均等」という条項を改正法では第4条にして、新しく「生涯学習の理念」という第3条が立てられています。同じ第2条が「方針」から「目標」に替わった理由が、単に具体的な内容を盛り込む為に条文が長くなり過ぎてしまって二つの条文に書き分けねばならなかっただけとは思えません。改正前の条文が解体されて書き換えられたと前提して条文を検証してします。

…教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

■これが改正前の第2条です。「あらゆる機会に、あらゆる場所において」という文言は、そっくり第3条に移されて、その頭に「生涯にわたって」という新しい修飾句が載せられています。日本の国民である限りは、いつでも何処でも勉強し続けられる社会環境が規定されているのですが、この文言を読むたびに、財政が破綻した北海道の夕張市の惨状が思い出されますなあ。夕張市よりも財政が傷んでいる自治体は多いとも言われますし、日本政府自体が夕張市政よりも深刻な赤字借金体質になっているとも言われます。恐ろしいことには、夕張は30年後の日本そのものだ!などと断定口調で警鐘を鳴らす人まで居るそうです。

■そうなりますと、少子高齢化という全国的な大変化の中でも、地場産業が衰退して税収が上がらず、行政が性悪な「コンサルタント屋」さんの口車に乗って現実離れした夢想に走った場合には、最初に学校や図書館などの教育関連施設が「廃止統合」の対象とされる事をまざまざと見せ付けてしまいましたぞ。少なくとも、現在の夕張市民は義務教育を受ける年齢の子供達を含めて、「何処でも」学べる環境を奪われてしまいました。『教育基本法』という法律が、他の法律と衝突した時には、あっさりと無視されるという事です。改正法案が議会に提出された後に、夕張市の小学校が7校から1校になった事実は、何とも皮肉な話でありました。では、新第2条を見てみましょう。


…教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に上げる目標を達成するよう行われるものとする。

■旧条文の中ほどに有った「学問の自由」が早々に掲げられて、以下に列挙される「目標」を達成する前提になっている構成ですが、どうも日本の国民は忘れっぽいと思われているのか、齟齬(そご)を来たしているように思える箇所が有るようです。