第2条第2項
個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
■ここにも「態度」が出て来ます。旧法の第1条「教育の目的」に入っていた「勤労」がここに復活しているのですが、この条文は文法的に混乱が見られるので、正確な読解が困難です。分かり易く解体すると、
個人の価値を尊重する。
個人の能力を伸ばす。
個人の創造性を培う。
ここまでは順調に読解出来ます。しかし、肝腎の「態度」に雪崩れ込むまでが意味不明なのです。
自主の精神と自律の精神を養う。
職業との関連を重視する。
生活との関連を重視する。
勤労を重んずる態度を養う。
■「関連」という単語の使い方が奇妙なのです。何と何の「関連」なのか、条文を何度読んでもさっぱり分かりません!「及び」でつないでいるのですから、「職業」と「生活」との関連ではありませんから、「職業及び生活」と「関連」付けられる相手が不明なのです。「生徒自身」という隠れた相手を想定しているとしか解釈のしようが無いのですが、思い切って「職業及び生活との関連を重視し」という箇所を削除してしまうと、文章としてすっきりしますから、後からこの奇怪なパーツが捻じ込まれたような印象を受けますなあ。これは小学校低学年の理科と社会を統合廃止して設置された「生活科」の正当性を主張するためだけに挿入されたのではないか?とも深読みできますなあ。
■旧法の第1条をこの条項にそっくり移し変えた上で、「勤労と責任」と書かれていたところに、「生活科」の設置は正しい!という主張を強引に押し込んだものと判定して置きましょう。
第2条第3項
正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
三つ目の「態度」です。「男女の平等」が大いなる違和感を持って盛り込まれている、これまた奇妙な条文ですなあ。旧法では、第5条に「男女共学」を謳っているのに比べると、この盛り沢山の「態度」の羅列に埋め込まれると、産業界が『男女雇用機会均等法』を曲解したり悪用したりしている現状を考えますと、何だか「男女平等」は既に達成されたのだ!と言い張っているようにも思える条文です。因みに旧法の第5条は以下の通りです。
…男女は相互に敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。
■敗戦まで続いた明治の近代教育制度が「男女3歳にして席を同じうせず」の伝統を遵守していた事実を、徹底的に否定する、それこそ占領軍の「態度」を示すのには、男女共学制度の強要が最も効果的だったのです。「女に学問は不要だ!」というのが家父長の決まり文句でしたから、日本中の家父長がその権威を失ったのでした。『青い山脈』という小説が映画化されて大流行したり、ちょっと遅れてフォーク・ダンス活動の流れに乗って、坂本九さんが『ジェンカ』という踊り付きの歌で、全国の若者に「キスしよう!」という啓蒙活動を盛んにやったものです。当時は、高校生の妊娠騒ぎやら売春騒動に発展するとは誰も思わずに、米国型の民主主義の象徴として「男女共学」が輝いていたそうですなあ。
■でも、米国の日常生活の実態を知る日本人が増えると、彼らが「日本は封建的な男尊女卑社会だ!」と断罪している裏で、米国家庭の家計を完全に掌握して細々と支出を監視しているのが男だという馬鹿馬鹿しい事実を知ることになったのでした。どっちが男尊女卑なんだ?と問い直さないと、「伝統」の議論など出来ないはずなのですが……。この条文が本気で「男女平等」を取り上げていない印象が有るので、条文自体が不用だったのではないか?との疑義が濃厚ですなあ。
■「正義と責任」「男女の平等」、「自他の敬愛と協力」に続いて、「公共の精神」「主体的に社会の形成に参画」とぞろぞろと並べられると、何だか米国が持ち込んだ残骸を、この条項に全部放り込んで処理してしまったような印象です。その証拠に、この条項も文法的な修飾関係に混乱が見られます。その解剖作業は割愛します。