いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
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※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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さて、ここでお釈迦様の修行の流れを、ちょっと整理してみましょう。
贅沢な生活を送っていたお釈迦様。
でも、実際はその生活で満たされる事はありませんでした。
ここで明らかだったのは、「物質や環境で幸せが決まるワケではない」ということ。
どんなに贅沢をしたところで、老い・病・死の恐怖から逃れることはできません。
「何とかして、これらの厄苦から逃れる方法はないのだろうか。また、本当の幸せとは何なのか…」
その疑問に答えてくれそうだったのが、「修行」という道でした。
そう、お釈迦様が悟りを開くずっと前から、宗教家や哲学家、思想家達が沢山いたのです。
そして、その頃にもすでに、「悟り」は語られていました。
思想や哲学を超え、ある種の体験で真理を獲得した人がいる…
しかしながら、「その真理とは何なのか」「悟りとは何なのか」「そこへ至る方法」等は一切不明瞭なままでした。
ですから、誰もが試行錯誤を重ね、失敗を繰り返しながら真理を探究している、そういう状態だったんですね。
そんな時代において、「あの人は悟りを開いたらしい」と評判だったのが、先にご紹介したアーラーラ・カーラーマ先生、ウッダカ・ラーマ・プッタ先生です。
アーラーラ・カーラーマ先生には約300人、ウッダカ・ラーマ・プッタ先生には約700人のお弟子さんがついていたそうです。
このお二人、その噂は本当で、ある意味、霊能力といいますか、超能力といいますか、そう言ったモノも備わっていたようで、相当凄い人だったようです。
そんなお二人に弟子入りしたお釈迦様が受けた教えは、大雑把に言うと「ある」と「ない」に基づく智慧、つまりは「空(くう)」の智慧でした。
これ、もう少しご紹介してみたいと思います。
人間の脳は、「ある」と「ない」という2つの極端な捉え方でしか理解出来ない構造・仕組みになっています。
人間の持つ感覚器(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)がセンサーとなり、そのセンサーが反応した時だけ、脳に「ある」という伝達が行われます。
逆にいえば、例えば音が鳴っていても、聞こえていなければその音は「ない」ことになる、モノがあっても、見えていなければ「ない」ことになるといった具合。
ですから、人間の脳は真っ先に「ある」の部分をフォーカスして物事を捉えようとします。
脳が知っているのはあくまで「ある」の瞬間だけなんです。「ない」には気付けないし、知り得ません。
「ある」は経験できますが、「ない」は経験できません。そこにあるのは、あくまで「センサーに反応しないから、ないんじゃないかなぁ」という「推測」なんです。
さてここで。
2人の先生は、「なぁシッダッタ。私たちは現象のあれこれを、“ある”と認識しているが、それは本当なんだろうか?そもそも“ある”とは、どういう事なんだろう?」という問題を投げかけました。
皆さんは分かりますか?
「ある」とは、そもそもどういう事なのか。
先生は、「実は、“ある”ということ自体が錯覚なんだよ。」と言うのです。
ここ、別な視点でもう少し踏み込みます。(前にもお話したことがあるのですが…)
例えば、いま皆さんの目の前には、PCモニター、もしくは携帯電話がありますね。
誰も、この事を疑わず、モニター(携帯電話)が「ある」と認識しています。
さて、今度はそれをバラバラに分解してみてください。(といっても、ホントにしちゃダメですよ。想像にとどめておいてください。)
分解すると、もう「モニター(携帯電話)がある」とは言えなくなります。
つまり、分解することでモニター(携帯電話)はなくなります。当たり前だけど。
でもね、その当たり前を、視点を変えて捉え直すと、「もともとモニター(携帯電話)はなかった」と解釈することができるんです。色々な部品を、ある法則のもとに組み立てたモノを「モニター(携帯電話)」と言うことにしている、というだけなんです。(ここ、伝わってるかなぁ…)
物質は、どんなものでも分解することができます。そして、それらを分解すればするほど今ある状態がなくなっていきます。
「あらゆる物質は、無の状態まで分解できる。つまり、存在するのは無だけ。だから、無こそが真理です。」と言うのが先生の教えでした。
この教えを受け、お釈迦様は、はたと気付きました。
『ちょっと待てよ?人間の脳は「ある」しか認識できない。つまり「ない」は認識ではなく、推測することしかできない…。なのに先生はその「無」を「明らかに知っている」。これは一体どういうことだ?』
ここでお釈迦様は、『やはり先生は思想や哲学を超えた、頭での理解を超えた何かを体験している。経験できるはずのない「無」を経験している…』という確信を持つことができました。
そして…
<(_ _ )> 『先生、教えてください!無を経験するにはどうしたらよいのでしょうか?』
(  ̄Д ̄) 「桃の味を知るには、実際に桃を食すしか方法はありません。それと同じように、無を知るには、自分が無になるほかに道はないのです。“自分がある”という妄想・呪縛から離れ、自我を滅することで、無そのものになるのです。」
先生の教えを素直に実践し、お釈迦様はとうとう「ある」と「ない」を超越し、「無の境地」を発見しました。
( ̄д ̄ ) 『なるほど…。そうか、そういうことだったのか…。私たち人間は、物事を「ある・ない」という極端な捉え方をすることで、苦しみを生んでいるんだ。「ある」と思うことで傲慢になり、「ない」と思うことで不満を抱き、「ある・ない」を超えた理解がないゆえに貪りや怒りや欲を生み、悩み苦しんでいるんだ…。ということは、やはり幸・不幸の基準は物質や環境の問題ではない。心の問題なんだ。』
(  ̄Д ̄) 「シッダッタ!よく頑張った!私が教える事はもう何もない。」
( ̄д ̄;) 『え?これで終わりですか?』
(; ̄Д ̄) 「え?他に何があるというんだい?」
( ̄д ̄;) 『いや…あのですね…確かに、先生の仰っていることは理解できました。しかしながら…』
(; ̄Д ̄) 「しかしながら?」
( ̄д ̄;) 『私が苦から離れることができるのは、あくまで瞑想中の時だけなのです。瞑想を終えると、どうしても、新たな苦が生まれてしまうのです…。これで終わりならば、完全に厄苦から抜け出せたとは言えません。』
(; ̄Д ̄) 「どうしてもこの先を行くのかね。」
<(_ _ )> 『はい。先生、短い間でしたが、大変お世話になりました。お陰様で、苦の原因を突き止めることができました。これからは、その苦の原因を滅する方法を見つけたいと思います。』
そうして苦の原因となる「欲」を、どうやったら取り除くことができるのかを探求することになります。
←あ。オチが思いつかない…
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さて、ここでお釈迦様の修行の流れを、ちょっと整理してみましょう。
贅沢な生活を送っていたお釈迦様。
でも、実際はその生活で満たされる事はありませんでした。
ここで明らかだったのは、「物質や環境で幸せが決まるワケではない」ということ。
どんなに贅沢をしたところで、老い・病・死の恐怖から逃れることはできません。
「何とかして、これらの厄苦から逃れる方法はないのだろうか。また、本当の幸せとは何なのか…」
その疑問に答えてくれそうだったのが、「修行」という道でした。
そう、お釈迦様が悟りを開くずっと前から、宗教家や哲学家、思想家達が沢山いたのです。
そして、その頃にもすでに、「悟り」は語られていました。
思想や哲学を超え、ある種の体験で真理を獲得した人がいる…
しかしながら、「その真理とは何なのか」「悟りとは何なのか」「そこへ至る方法」等は一切不明瞭なままでした。
ですから、誰もが試行錯誤を重ね、失敗を繰り返しながら真理を探究している、そういう状態だったんですね。
そんな時代において、「あの人は悟りを開いたらしい」と評判だったのが、先にご紹介したアーラーラ・カーラーマ先生、ウッダカ・ラーマ・プッタ先生です。
アーラーラ・カーラーマ先生には約300人、ウッダカ・ラーマ・プッタ先生には約700人のお弟子さんがついていたそうです。
このお二人、その噂は本当で、ある意味、霊能力といいますか、超能力といいますか、そう言ったモノも備わっていたようで、相当凄い人だったようです。
そんなお二人に弟子入りしたお釈迦様が受けた教えは、大雑把に言うと「ある」と「ない」に基づく智慧、つまりは「空(くう)」の智慧でした。
これ、もう少しご紹介してみたいと思います。
人間の脳は、「ある」と「ない」という2つの極端な捉え方でしか理解出来ない構造・仕組みになっています。
人間の持つ感覚器(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)がセンサーとなり、そのセンサーが反応した時だけ、脳に「ある」という伝達が行われます。
逆にいえば、例えば音が鳴っていても、聞こえていなければその音は「ない」ことになる、モノがあっても、見えていなければ「ない」ことになるといった具合。
ですから、人間の脳は真っ先に「ある」の部分をフォーカスして物事を捉えようとします。
脳が知っているのはあくまで「ある」の瞬間だけなんです。「ない」には気付けないし、知り得ません。
「ある」は経験できますが、「ない」は経験できません。そこにあるのは、あくまで「センサーに反応しないから、ないんじゃないかなぁ」という「推測」なんです。
さてここで。
2人の先生は、「なぁシッダッタ。私たちは現象のあれこれを、“ある”と認識しているが、それは本当なんだろうか?そもそも“ある”とは、どういう事なんだろう?」という問題を投げかけました。
皆さんは分かりますか?
「ある」とは、そもそもどういう事なのか。
先生は、「実は、“ある”ということ自体が錯覚なんだよ。」と言うのです。
ここ、別な視点でもう少し踏み込みます。(前にもお話したことがあるのですが…)
例えば、いま皆さんの目の前には、PCモニター、もしくは携帯電話がありますね。
誰も、この事を疑わず、モニター(携帯電話)が「ある」と認識しています。
さて、今度はそれをバラバラに分解してみてください。(といっても、ホントにしちゃダメですよ。想像にとどめておいてください。)
分解すると、もう「モニター(携帯電話)がある」とは言えなくなります。
つまり、分解することでモニター(携帯電話)はなくなります。当たり前だけど。
でもね、その当たり前を、視点を変えて捉え直すと、「もともとモニター(携帯電話)はなかった」と解釈することができるんです。色々な部品を、ある法則のもとに組み立てたモノを「モニター(携帯電話)」と言うことにしている、というだけなんです。(ここ、伝わってるかなぁ…)
物質は、どんなものでも分解することができます。そして、それらを分解すればするほど今ある状態がなくなっていきます。
「あらゆる物質は、無の状態まで分解できる。つまり、存在するのは無だけ。だから、無こそが真理です。」と言うのが先生の教えでした。
この教えを受け、お釈迦様は、はたと気付きました。
『ちょっと待てよ?人間の脳は「ある」しか認識できない。つまり「ない」は認識ではなく、推測することしかできない…。なのに先生はその「無」を「明らかに知っている」。これは一体どういうことだ?』
ここでお釈迦様は、『やはり先生は思想や哲学を超えた、頭での理解を超えた何かを体験している。経験できるはずのない「無」を経験している…』という確信を持つことができました。
そして…
<(_ _ )> 『先生、教えてください!無を経験するにはどうしたらよいのでしょうか?』
(  ̄Д ̄) 「桃の味を知るには、実際に桃を食すしか方法はありません。それと同じように、無を知るには、自分が無になるほかに道はないのです。“自分がある”という妄想・呪縛から離れ、自我を滅することで、無そのものになるのです。」
先生の教えを素直に実践し、お釈迦様はとうとう「ある」と「ない」を超越し、「無の境地」を発見しました。
( ̄д ̄ ) 『なるほど…。そうか、そういうことだったのか…。私たち人間は、物事を「ある・ない」という極端な捉え方をすることで、苦しみを生んでいるんだ。「ある」と思うことで傲慢になり、「ない」と思うことで不満を抱き、「ある・ない」を超えた理解がないゆえに貪りや怒りや欲を生み、悩み苦しんでいるんだ…。ということは、やはり幸・不幸の基準は物質や環境の問題ではない。心の問題なんだ。』
(  ̄Д ̄) 「シッダッタ!よく頑張った!私が教える事はもう何もない。」
( ̄д ̄;) 『え?これで終わりですか?』
(; ̄Д ̄) 「え?他に何があるというんだい?」
( ̄д ̄;) 『いや…あのですね…確かに、先生の仰っていることは理解できました。しかしながら…』
(; ̄Д ̄) 「しかしながら?」
( ̄д ̄;) 『私が苦から離れることができるのは、あくまで瞑想中の時だけなのです。瞑想を終えると、どうしても、新たな苦が生まれてしまうのです…。これで終わりならば、完全に厄苦から抜け出せたとは言えません。』
(; ̄Д ̄) 「どうしてもこの先を行くのかね。」
<(_ _ )> 『はい。先生、短い間でしたが、大変お世話になりました。お陰様で、苦の原因を突き止めることができました。これからは、その苦の原因を滅する方法を見つけたいと思います。』
そうして苦の原因となる「欲」を、どうやったら取り除くことができるのかを探求することになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e9/b8a4bcdc22643fc1ac2303b742061ba6.png)
コメント ( 11 ) | Trackback ( )
« 理系 | 断食 » |
煩悩って楽しくて美味しそうなトコが
曲者。。。
認識って意識の情報処理の一つの結果にすぎない
って思います
だから全く同じ状況でも
幸せと感じる人と不幸せって感じる人がいるのかも
あっという間に2008年も半分
後半もヨロシクお願いします
そうなんだよね~「苦」から離れたい。
煩悩から離れたい。
でも新たな苦がやってくる~
新たな煩悩がやってくる~~
やってくる~~やってくる~~\(゜ロ\)(/ロ゜)/
はっ!!やってくるんではなくて自分で作ってる
のか(-"-)
シッタッダがとても素直な人間でよかったーー
苦の原因・・・・是非知りたい。
かえって好感がもてます♪
(^∀^)
いざ、煩悩の滅尽へっ☆
こりゃ一筋縄では行きゃあせんぜ、ダンナ
仏陀のお話とってもまとまっていて かつ楽しく説明されててグッジョブお二方!です
まるで外国で読む仏教経典の如く分かりやすい説明です。
今回オチがないのも
応援してまーす
理由」 「幸・不幸の本質」
以上、大変よく理解でき気持ちがすっきりしました。
次回が待ちどうしくてなりません。
無い状態からすべてが生み出されているならば、生み出されるものには限界がない???
すごい世界に私たちは住んでいるんですね。
反射神経、運動神経、etc
あるもの、、、壁、檻、、圧迫感、切迫感、
しがらみ、気ぜわしさ、etc
でもでも、そういうのも思い込んでるだけ
あってもなくてもどっちでもいい
あったってなくたってどうにでもなる
全ては波動だって(そうとも言い切れないかもしれないけど)分かったから、
上がることも下がることもあって当たり前、
だから、辛い悲しいもあって良い
上がってるばっかりってありえないし、
そう思ったら、なんか「苦」は無い、と思えるようになった今日この頃、、、
もちろん黒斎さんの説明はとても解かりやすいんです。
わたしの問題なのです。
この世に煩悩は何故あるのでしょう?
それとも煩悩は錯覚なんですかね?
なんだか、煩悩もよい友達のように思うのです。
自分でもあんまりちゃんとまとまってないんです。
m9( ̄д ̄)的確!
chieさん
>はっ!!やってくるんではなくて自分で作ってるのか(-"-)
_(*_ _)ノ彡☆ギャハハハ!!バンバン!!
サンカッパさん
そりゃぁ、僕だって思いつかない時もありますわな。w
>かえって好感がもてます♪
サンキュー!
saionjiさん
あざーーす!
夢さん
ホントに?
ちゃんと理解できてる?
これ理解するのって、相当なもんだと思うよ。。。
リアさん
>すごい世界に私たちは住んでいるんですね。
そうですね。
黄色い蝶々さん
>でもでも、そういうのも思い込んでるだけ
うんうん。
kameさん
「無」はね、存在がなくなるのではなく、
「自我」がなくなる事をさしているんです。
そこさえ分かれば、あとは難しいことはありません。