2025年、gooブログのサービス終了に伴い、noteへお引越ししました。
あの世に聞いた、この世の仕組み
四向四果
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
********************************************
沢山のエール、ありがとうございました。
お陰様で、悪あがきにも俄然力が入ります。
とはいえ、これからもこれまで通り、僕の書けることしか書けないわけですが…。
お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
さて、チョットだけ吹っ切れた感もあるので、この勢いに任せて新たな話題に入っていきたいと思います。
これまでのお話より、かなりマニアックな話題となりますので、どこまでわかりやすく出来るか、自分でもまだわかりません。
でも、やってみます。
これから書こうと思っていることは「悟り」についてです。
前回書いたとおり、その内的体験には、色々な呼び名があります。
「気付き」「至高体験」「悟り」「アセンション」「預流果」「究極体験」「無我」「覚醒」その他諸々…
言葉は違えど、その言葉の指す意味は同じです。
さて、ではその内的体験って、一体なんなのでしょう。何が起こるのでしょう?
仏教には、輪廻からの解脱、涅槃に入るまでの、悟りの階梯・段階を示す言葉があります。
・預流向(よるこう)
-----------------------------------
・預流果(よるか)
・一来向(いちらいこう)
・一来果(いちらいか)
・不還向(ふげんこう)
・不還果(ふげんか)
・阿羅漢向(あらかんこう)
・阿羅漢果(あらかんか)
4つの「向(目標)」と4つの「果(到達)」の合わせて8段階。
これを合わせて『四向四果(しこうしか)』と言います。
ここ最近の精神世界で取り上げられる内的体験、「気付き」「至高体験」「悟り」「アセンション」「究極体験」「無我」「覚醒」などの言葉はほぼ、この8段階の中の2番目『預流果』のコトを指しています。
「悟り」なんて言葉を聞くと、どこか「煩悩全てがごそっと抜け落ちる」みたいな印象があるかと思いますが、そうではありません。
それは、悟った後の最終段階、「阿羅漢果」の状態のことなんです。
では、悟りの入り口「預流果」とは何なのか。
そのお話に進む、その前に…
ここら辺の記事を思い出していただけると助かります。
・2008年05月12日投稿「よっぱらい」
・2008年05月14日投稿「あの日」
・2008年05月15日「よっぱらい.2」
・2008年05月16日投稿「酒類」
・2008年07月31日投稿「預流果」
・2008年10月01日投稿「主観」
・2008年10月02日投稿「認識範囲」
・2008年10月07日投稿「生死」
←こんなマニアックな話でも応援していただけますか?
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沢山のエール、ありがとうございました。
お陰様で、悪あがきにも俄然力が入ります。
とはいえ、これからもこれまで通り、僕の書けることしか書けないわけですが…。
お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
さて、チョットだけ吹っ切れた感もあるので、この勢いに任せて新たな話題に入っていきたいと思います。
これまでのお話より、かなりマニアックな話題となりますので、どこまでわかりやすく出来るか、自分でもまだわかりません。
でも、やってみます。
これから書こうと思っていることは「悟り」についてです。
前回書いたとおり、その内的体験には、色々な呼び名があります。
「気付き」「至高体験」「悟り」「アセンション」「預流果」「究極体験」「無我」「覚醒」その他諸々…
言葉は違えど、その言葉の指す意味は同じです。
さて、ではその内的体験って、一体なんなのでしょう。何が起こるのでしょう?
仏教には、輪廻からの解脱、涅槃に入るまでの、悟りの階梯・段階を示す言葉があります。
・預流向(よるこう)
-----------------------------------
・預流果(よるか)
・一来向(いちらいこう)
・一来果(いちらいか)
・不還向(ふげんこう)
・不還果(ふげんか)
・阿羅漢向(あらかんこう)
・阿羅漢果(あらかんか)
4つの「向(目標)」と4つの「果(到達)」の合わせて8段階。
これを合わせて『四向四果(しこうしか)』と言います。
ここ最近の精神世界で取り上げられる内的体験、「気付き」「至高体験」「悟り」「アセンション」「究極体験」「無我」「覚醒」などの言葉はほぼ、この8段階の中の2番目『預流果』のコトを指しています。
「悟り」なんて言葉を聞くと、どこか「煩悩全てがごそっと抜け落ちる」みたいな印象があるかと思いますが、そうではありません。
それは、悟った後の最終段階、「阿羅漢果」の状態のことなんです。
では、悟りの入り口「預流果」とは何なのか。
そのお話に進む、その前に…
ここら辺の記事を思い出していただけると助かります。
・2008年05月12日投稿「よっぱらい」
・2008年05月14日投稿「あの日」
・2008年05月15日「よっぱらい.2」
・2008年05月16日投稿「酒類」
・2008年07月31日投稿「預流果」
・2008年10月01日投稿「主観」
・2008年10月02日投稿「認識範囲」
・2008年10月07日投稿「生死」

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生死
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さて。
先日、バラバラに感じてしまうあれこれも「本当は一つの存在」というコトを言いたくて、無理矢理こんな「トゲトゲ図」を書いてみました。

このトゲトゲの1本1本は、何も人間のことだけを指しているのではありません。
通常僕たちが認識出来ている全てのものが含まれると思ってください。
Aが「自我(知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。)」、B~Lが「非我(自我に対立して存在しているいっさいのもの。自我から区別された外界・環境・自然をさす。)」です。
※なので、図はシンプルですが、実際にはこのトゲトゲの数が、数え切れないほどの数だと思ってください。
で、
通常私たちは、この図の赤いラインを境に、「あの世」「この世」という区別をつけています。
認識出来ている範囲を「この世」、認識出来ない範囲を「あの世」という風に。
ですが、この「赤いライン」という境界線も、「国境」と同様に実在するものではありません。
この図を用いて、もう少し「生死」をわかりやすく出来ればと思い、久方ぶりにあの方のお力を拝借いたしました。
…ってことで、じゃじゃーん!
昨日佃煮ヨーグルトさんに急遽お願いした、「トゲトゲ図フラッシュ版」がこちら。

↑クリックでムービーをご覧いただけます。(※携帯ではご覧いただけません。)
さすがだね~。
相変わらず仕事が早いね~、佃煮さん。
っていうか、「今めっさ忙しい」って言っていたはずなのだが…
…
存在(オレンジ)が、赤いラインの外側に出ると「誕生」、内側に入ると「死」です。
「存在」は、決して分離することはありません。必ずどこかで繋がりをもった、「一つの大いなる存在」なんです。
で、この図の「赤いライン」という境界線がなくなる状態が「無我」です。
ですから、Aというトゲの一本が無くなるのではなく、「自他」という区別がなくなることです。
存在するのは絶えず動き続けている「広大な繋がりをもった存在のすべて(オレンジ)」だけ。
どうでしょう。
これで、何となくでも『「諸行無常(存在は変化し続ける)」=「因縁(原因と結果は連鎖し続ける)」=「諸法無我(実際には“私”は存在しない)」』の意味が見えると思うのですが…
←今日は、佃煮ヨーグルトさんに一票。
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さて。
先日、バラバラに感じてしまうあれこれも「本当は一つの存在」というコトを言いたくて、無理矢理こんな「トゲトゲ図」を書いてみました。

このトゲトゲの1本1本は、何も人間のことだけを指しているのではありません。
通常僕たちが認識出来ている全てのものが含まれると思ってください。
Aが「自我(知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。)」、B~Lが「非我(自我に対立して存在しているいっさいのもの。自我から区別された外界・環境・自然をさす。)」です。
※なので、図はシンプルですが、実際にはこのトゲトゲの数が、数え切れないほどの数だと思ってください。
で、
通常私たちは、この図の赤いラインを境に、「あの世」「この世」という区別をつけています。
認識出来ている範囲を「この世」、認識出来ない範囲を「あの世」という風に。
ですが、この「赤いライン」という境界線も、「国境」と同様に実在するものではありません。
この図を用いて、もう少し「生死」をわかりやすく出来ればと思い、久方ぶりにあの方のお力を拝借いたしました。
…ってことで、じゃじゃーん!
昨日佃煮ヨーグルトさんに急遽お願いした、「トゲトゲ図フラッシュ版」がこちら。

↑クリックでムービーをご覧いただけます。(※携帯ではご覧いただけません。)
さすがだね~。
相変わらず仕事が早いね~、佃煮さん。
っていうか、「今めっさ忙しい」って言っていたはずなのだが…
…
存在(オレンジ)が、赤いラインの外側に出ると「誕生」、内側に入ると「死」です。
「存在」は、決して分離することはありません。必ずどこかで繋がりをもった、「一つの大いなる存在」なんです。
で、この図の「赤いライン」という境界線がなくなる状態が「無我」です。
ですから、Aというトゲの一本が無くなるのではなく、「自他」という区別がなくなることです。
存在するのは絶えず動き続けている「広大な繋がりをもった存在のすべて(オレンジ)」だけ。
どうでしょう。
これで、何となくでも『「諸行無常(存在は変化し続ける)」=「因縁(原因と結果は連鎖し続ける)」=「諸法無我(実際には“私”は存在しない)」』の意味が見えると思うのですが…

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認識範囲
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さて、ここで一度お話を整理してみます。
今回お話する内容は、「実際には“私”は実在しない」ということについてです。
ここでの「私」は、存在の根源を指す言葉ではなく、「自分」と「自分以外」というように、物事を分断して捉える「独立した存在」を示した言葉です。
これまでにお話してきた「錯覚」を、明確に言い表すと、「本来は一つの存在なのに、“私”という独立した存在があると勘違いしている」と言うことです。
ですから「無我」と言っても、存在その物が消えて無くなるのではなく、「あれ・これ」や「私・他人」と言ったような「区別・固定概念(境界線)」が消えるというニュアンスです。
少々回りくどい表現になってしまい申し訳ありませんが、まずは上記のニュアンスを感じ取ってください。
普段私たちは、「私」に対して「Aさん」「Bさん」という「自分以外」の人や物が独立して存在していると思っています。
ですが、それは真実ではありません。
「私」も「Aさん」も「Bさん」も「同じ存在」なんです。
それぞれが独立して存在しているのではなく、その存在はひと繋がりの「同じ存在」なんです。
例えるならば、「人体」というモノを「存在の全て」と考えた時、「私」は右手人差し指。「Aさん」は左手薬指。「Bさん」は左手の親指。と、言った具合。
元々は「人体」という、一つの大きな存在であるにも関わらず、「右手人差し指」「左手薬指」「左手の親指」が独立して(切り離されて)存在していると勘違いしているんです。
なぜそういった勘違いが生まれてしまっているかと言うと、それぞれの「繋がり(因縁)を捉える事ができていないから」です。
上記をさらに図解します。
プールに入っている状態を想像してください。
プールの中から、手の指先だけを出します。

「水上」が普段僕たちの「五感」で認識出来る領域で、「水中」が僕たちの認識能力を超えた領域です。
自分の能力において、水中がどうなっているかを把握出来ないとしたら、水の外に出ている「指先」は、まるで独立して存在しているかの様に見えてしまいます。
ですが、それを認識出来ようが出来まいが、実際には「人体」という、ひと繋がりの存在なんです。
よく「他人にしたことは自分の身に帰ってくるぞ」なんて事が言われますが、上記の様に考えれば当然の結果です。
「右人差し指」が「左親指」を痛めつけたとしたら、やはり「自分」が痛い思いをする羽目になります。
「私(右手人差し指)」が思う「自分」も「Aさん(左手薬指)」が思う「自分」も「Bさん(左手親指)」が思う「自分」も、実は「同じ自分」なんです。
ずーっと「“私”とは“右手人差し指”である。」と勘違いしていた状態から、“右手人差し指”という“固定概念”が欠落した時、“人体”という存在の全体像が見えてくるんです。
2008年07月01日投稿「探求」において、『人間の脳は、「ある」と「ない」という2つの極端な捉え方でしか理解出来ない構造・仕組みになっています。』というお話をさせていただきました。
それは、まさにこのことなんです。
私たちは五感で捉えられることが存在の全てと勘違いしてしまっているんです。
ですが、僕たちの認識能力は「不完全」です。
どんなに健康な人でも、物事のほんの一部しか捉えることができません。
僕たちの五感では認識出来ませんが、「電波」は確実に存在しています。
嗅覚も犬の能力にはとても追いつけません。
僕たちには「無臭」でも、彼らにはシッカリ「存在」しています。
聴覚もそうです。僕たちが捕らえることが出来る周波数には限りがあります。
目に見える範囲も限られています。
結局、全体像を把握できていない、不完全な状態なんです。

さらに。
アナタの指先をじっと観察してみてください。
いま、アナタの目に映っている「指先」は、アナタが2歳の時と「同じ指先」ですか?
そうですよね。同じはずはないですよね。
爪も細胞も汚れ方も中に流れる血液も、何から何まで変わってしまっています。
色もサイズも質感も匂いも、全然違います。
それに気づくと、もう「指先がある」とは、厳密には言えなくなってくるんです。
「今」という瞬間の「指先」はあっても、次の瞬間には、もう「別な指先」になってしまっているんです。
どうでしょう?
こんな表現で伝わりますか?
←認識能力許容範囲。
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さて、ここで一度お話を整理してみます。
今回お話する内容は、「実際には“私”は実在しない」ということについてです。
ここでの「私」は、存在の根源を指す言葉ではなく、「自分」と「自分以外」というように、物事を分断して捉える「独立した存在」を示した言葉です。
これまでにお話してきた「錯覚」を、明確に言い表すと、「本来は一つの存在なのに、“私”という独立した存在があると勘違いしている」と言うことです。
ですから「無我」と言っても、存在その物が消えて無くなるのではなく、「あれ・これ」や「私・他人」と言ったような「区別・固定概念(境界線)」が消えるというニュアンスです。
少々回りくどい表現になってしまい申し訳ありませんが、まずは上記のニュアンスを感じ取ってください。
普段私たちは、「私」に対して「Aさん」「Bさん」という「自分以外」の人や物が独立して存在していると思っています。
ですが、それは真実ではありません。
「私」も「Aさん」も「Bさん」も「同じ存在」なんです。
それぞれが独立して存在しているのではなく、その存在はひと繋がりの「同じ存在」なんです。
例えるならば、「人体」というモノを「存在の全て」と考えた時、「私」は右手人差し指。「Aさん」は左手薬指。「Bさん」は左手の親指。と、言った具合。
元々は「人体」という、一つの大きな存在であるにも関わらず、「右手人差し指」「左手薬指」「左手の親指」が独立して(切り離されて)存在していると勘違いしているんです。
なぜそういった勘違いが生まれてしまっているかと言うと、それぞれの「繋がり(因縁)を捉える事ができていないから」です。
上記をさらに図解します。
プールに入っている状態を想像してください。
プールの中から、手の指先だけを出します。

「水上」が普段僕たちの「五感」で認識出来る領域で、「水中」が僕たちの認識能力を超えた領域です。
自分の能力において、水中がどうなっているかを把握出来ないとしたら、水の外に出ている「指先」は、まるで独立して存在しているかの様に見えてしまいます。
ですが、それを認識出来ようが出来まいが、実際には「人体」という、ひと繋がりの存在なんです。
よく「他人にしたことは自分の身に帰ってくるぞ」なんて事が言われますが、上記の様に考えれば当然の結果です。
「右人差し指」が「左親指」を痛めつけたとしたら、やはり「自分」が痛い思いをする羽目になります。
「私(右手人差し指)」が思う「自分」も「Aさん(左手薬指)」が思う「自分」も「Bさん(左手親指)」が思う「自分」も、実は「同じ自分」なんです。
ずーっと「“私”とは“右手人差し指”である。」と勘違いしていた状態から、“右手人差し指”という“固定概念”が欠落した時、“人体”という存在の全体像が見えてくるんです。
2008年07月01日投稿「探求」において、『人間の脳は、「ある」と「ない」という2つの極端な捉え方でしか理解出来ない構造・仕組みになっています。』というお話をさせていただきました。
それは、まさにこのことなんです。
私たちは五感で捉えられることが存在の全てと勘違いしてしまっているんです。
ですが、僕たちの認識能力は「不完全」です。
どんなに健康な人でも、物事のほんの一部しか捉えることができません。
僕たちの五感では認識出来ませんが、「電波」は確実に存在しています。
嗅覚も犬の能力にはとても追いつけません。
僕たちには「無臭」でも、彼らにはシッカリ「存在」しています。
聴覚もそうです。僕たちが捕らえることが出来る周波数には限りがあります。
目に見える範囲も限られています。
結局、全体像を把握できていない、不完全な状態なんです。

さらに。
アナタの指先をじっと観察してみてください。
いま、アナタの目に映っている「指先」は、アナタが2歳の時と「同じ指先」ですか?
そうですよね。同じはずはないですよね。
爪も細胞も汚れ方も中に流れる血液も、何から何まで変わってしまっています。
色もサイズも質感も匂いも、全然違います。
それに気づくと、もう「指先がある」とは、厳密には言えなくなってくるんです。
「今」という瞬間の「指先」はあっても、次の瞬間には、もう「別な指先」になってしまっているんです。
どうでしょう?
こんな表現で伝わりますか?

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主観
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遅まきながらようやく夏季休暇を取得することができ、ボクらのクラブのリーダーであらせられるところの、三木さんと愉快な仲間達(浦安在住)に会ってきました。
そんなワケで、充電どころか、すっかり漏電気味で帰ってきた黒斎です。
体力の衰えを感じつつ、ただいま~!
さて、ここからはタイトルも「死後の世界」から離れ、お話の展開を「預流果(よるか)」に向けて方向転換していきたいと思います。
先日の「国家」「日本」のお話はご理解いただけましたでしょうか?
よく言われることですが、実際には「国境」は実在しません。それがあるのは、人間の頭の中だけ(つまりは幻想)です。
これに代表されるように、僕たちは、日々、実際には無いモノをあることとして生活しています。
「国境」だけではなく、突き詰めて考えていくと、「時間」や「物質」なども、同じように「決め事」なんです。
「決め事」を「決め事」として自覚出来ていればまだいいですが、多くの人は、この「便宜上定めた決め事」を「真実」と錯覚して生きているんです。
それでは、その「錯覚」がどこから生まれて仕舞ったのかを考えてみましょう。
その理由は大きく2つ。
その1。
その「決め事」が、物心付く前から「決め事」だったから。
そうなんです。その「決め事」は、自分で決めたことではないんです。
物心付く前からあったルールに、どっぷり浸かってしまっているんです。
自分で決めた事じゃないから、「当たり前」と言われるあれこれが、「決め事」であることに気づけない。
でも、中にはその「当たり前」と呼ばれることが「ただの決め事」と気づいてしまう人も現れます。
「あれ?僕はどうして“鈴木”という名前なのだろう?」とか、「なんで日本人なんだろう?」とか、自分の存在を表すとされるあれこれが、全て「便宜上のもの」と不意に気づいてしまうことがあります。
このことに気づくのは、「当たり前」にどっぷり浸かってしまう前の、子供の方が多いかもしれません。(このブログをご覧の方々の中にも、こんな経験をお持ちの方も少なくないと思います。)
しかしながら、パパやママに「どうして僕は鈴木なの?」とか「どうして日本人なの?」と聞いても、錯覚の世界に生きているパパやママには答えられません。
その質問の意味が、正確に理解できていないのです。
僕は、自分の存在の根源の事を聞きたかったのに、「なにバカなこと言ってるの。アナタはパパとママの間に生まれて来たから鈴木なのよ。日本に生まれたから日本人なのよ。」と、サッパリ見当違いの返答をされてしまいます。
なんせ、パパやママはそれを正確に理解できていないにも関わらず、「当たり前」としてしまっているのですから。
でも。
この疑問は哲学的な思考で理解することが可能です。
「ワンネス(本来は一つ)」という概念が理解できれば、「頭」で理解出来る範囲です。
問題は、もう一つの理由。
錯覚が生まれる理由その2。
物事を感じる「主観」があるから。
いくら「ワンネス」を頭で理解できていても、この「主観」があるがゆえ、「私」の呪縛から離れることができません。
目に見えるから。触れられるから。匂いを感じるから。音が聞こえるから。味を感じるから。色々と考え事をしている自分がいるから。
私たち人間は、これらの「主観」によって「自分」と「その他」を切り分けて捉えます。
私は私、その他はその他。
この主観によって「私」が独立して存在しているように感じられるから、他のモノも全て独立して存在している様に錯覚してしまうんです。
でも、皆さんはこう仰るでしょう。
「実際には“私”は存在しない」といくら言われてもサッパリ意味がわかりません。
だって、「私」という「主観」は、確実にあるのですから。
視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・意思、これだけの数だけ「私」の存在をシッカリ感じる要素があるのだから、疑いようがない。
この「主観」は、決して「錯覚」などではない!
なのですが…
この「主観」が、あらゆる錯覚を生み出す張本人なんです。
で…
この「主観」が消え失せる、という経験が「預流果(よるか)」です。
と、言うことで…
この先のお話は、次元をハイスピードで急上昇、急降下、急旋回するジェットコースタータイプのお話となります。ご閲読は健康状態のよい方に限ります。以下の症状をお持ちの方は ...(←頭から三木さんが離れていない模様。)
←不在中もご協力ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
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遅まきながらようやく夏季休暇を取得することができ、ボクらのクラブのリーダーであらせられるところの、三木さんと愉快な仲間達(浦安在住)に会ってきました。
そんなワケで、充電どころか、すっかり漏電気味で帰ってきた黒斎です。
体力の衰えを感じつつ、ただいま~!
さて、ここからはタイトルも「死後の世界」から離れ、お話の展開を「預流果(よるか)」に向けて方向転換していきたいと思います。
先日の「国家」「日本」のお話はご理解いただけましたでしょうか?
よく言われることですが、実際には「国境」は実在しません。それがあるのは、人間の頭の中だけ(つまりは幻想)です。
これに代表されるように、僕たちは、日々、実際には無いモノをあることとして生活しています。
「国境」だけではなく、突き詰めて考えていくと、「時間」や「物質」なども、同じように「決め事」なんです。
「決め事」を「決め事」として自覚出来ていればまだいいですが、多くの人は、この「便宜上定めた決め事」を「真実」と錯覚して生きているんです。
それでは、その「錯覚」がどこから生まれて仕舞ったのかを考えてみましょう。
その理由は大きく2つ。
その1。
その「決め事」が、物心付く前から「決め事」だったから。
そうなんです。その「決め事」は、自分で決めたことではないんです。
物心付く前からあったルールに、どっぷり浸かってしまっているんです。
自分で決めた事じゃないから、「当たり前」と言われるあれこれが、「決め事」であることに気づけない。
でも、中にはその「当たり前」と呼ばれることが「ただの決め事」と気づいてしまう人も現れます。
「あれ?僕はどうして“鈴木”という名前なのだろう?」とか、「なんで日本人なんだろう?」とか、自分の存在を表すとされるあれこれが、全て「便宜上のもの」と不意に気づいてしまうことがあります。
このことに気づくのは、「当たり前」にどっぷり浸かってしまう前の、子供の方が多いかもしれません。(このブログをご覧の方々の中にも、こんな経験をお持ちの方も少なくないと思います。)
しかしながら、パパやママに「どうして僕は鈴木なの?」とか「どうして日本人なの?」と聞いても、錯覚の世界に生きているパパやママには答えられません。
その質問の意味が、正確に理解できていないのです。
僕は、自分の存在の根源の事を聞きたかったのに、「なにバカなこと言ってるの。アナタはパパとママの間に生まれて来たから鈴木なのよ。日本に生まれたから日本人なのよ。」と、サッパリ見当違いの返答をされてしまいます。
なんせ、パパやママはそれを正確に理解できていないにも関わらず、「当たり前」としてしまっているのですから。
でも。
この疑問は哲学的な思考で理解することが可能です。
「ワンネス(本来は一つ)」という概念が理解できれば、「頭」で理解出来る範囲です。
問題は、もう一つの理由。
錯覚が生まれる理由その2。
物事を感じる「主観」があるから。
いくら「ワンネス」を頭で理解できていても、この「主観」があるがゆえ、「私」の呪縛から離れることができません。
目に見えるから。触れられるから。匂いを感じるから。音が聞こえるから。味を感じるから。色々と考え事をしている自分がいるから。
私たち人間は、これらの「主観」によって「自分」と「その他」を切り分けて捉えます。
私は私、その他はその他。
この主観によって「私」が独立して存在しているように感じられるから、他のモノも全て独立して存在している様に錯覚してしまうんです。
でも、皆さんはこう仰るでしょう。
「実際には“私”は存在しない」といくら言われてもサッパリ意味がわかりません。
だって、「私」という「主観」は、確実にあるのですから。
視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・意思、これだけの数だけ「私」の存在をシッカリ感じる要素があるのだから、疑いようがない。
この「主観」は、決して「錯覚」などではない!
なのですが…
この「主観」が、あらゆる錯覚を生み出す張本人なんです。
で…
この「主観」が消え失せる、という経験が「預流果(よるか)」です。
と、言うことで…
この先のお話は、次元をハイスピードで急上昇、急降下、急旋回するジェットコースタータイプのお話となります。ご閲読は健康状態のよい方に限ります。以下の症状をお持ちの方は ...(←頭から三木さんが離れていない模様。)

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死後の世界.10
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昨今のニュース番組から流れる『ムーディーズ』という単語を耳にして、
スムーズに「アメリカの格付け会社」が想起できるアナタは常識人。
一瞬ドキッとして「えっ?民放で南波杏!?」となったアナタはただのAVオタク。
毎度どうも!後者です。
…
さて、日常生活において、うかつに「実際には“私”は存在していません。」なんて口にしてしまうと、先のジョークを発した時以上に「この人、大丈夫?」なんて目で見られることになるので、よい子のみんなは気をつけようね♪
ってことで、この受け入れがたい「私が存在しない」ということの、本当の意味を探してみましょう。
「私が存在しない」。これを仏教の専門用語に置き換えると『諸法無我(しょほうむが)』となります。
この「諸法無我」も、その意味を理解すると、言っていることは「諸行無常」や「因縁」とイコールで結ばれるのだということに気付けます。
「因縁」=「諸行無常」=「諸法無我」
上記の公式を文章化すると次のようになります。
『原因と結果の連鎖がある限り、全ては変わり続ける。ゆえに「私」は存在できない。』
現時点では、この言葉の意味がよく理解できないと思います。
順を追ってご説明していきますので、とりあえず上記の公式を頭の片隅に残しておいてください。
では、出来るだけこの事を受け入れられる様、「私」を別なモノに置き換えて考えていきましょう。
と、言うことで、昨日の『「自我」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「私」は存在していないのです。』の単語を入れ替えてみます。
『「国家」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「日本」は存在していないのです。』
「日本」を辞書で引くと「我が国のこと」ですからね。「私」とそう遠くもないでしょう。
どうでしょう?
これならまだ、「私」よりも冷静に考えることが出来るかと思います。
それでもまだ、「いやいやいや!チョット待て! “日本”は確実に存在しているだろう!まさに、今、ここにっ!」ってなってますよね。
いよいよここから、その固定概念を崩していきますよ。ここから先は、子供のように頭を柔らかくして読み進めてください。
では、参ります。
「日本」が存在しているのは、「(日本の存在を知っている)人間の頭の中だけ」です。つまり「幻影」。
なぜなら、誰一人として、あるはずの「日本」を指し示すことはできません。
確かに「国土」は目に見えるものです。ですが「国土」はあくまで「土地・領土」であって、それが「日本」なのではありません。
「領土」や「国境」も、人間が勝手に作り上げた「固定概念」です。
「ここからここまでを日本ということにしよう」という「決め事」でしかありません。
私たちは「日本人」「ジャパニーズ」と呼ばれますが、それが「日本」なのでもありません。
たまたま「日本」と名付けられている土地に生まれたから「日本人」ということになっているだけです。これも人間が勝手に作った「決め事」です。
「日本文化」や「日本特有の生活様式」がありますが、それが「日本」なのでもありません。「文化」はあくまで「文化」です。
「日本語」はありますが、それが「日本」でもありません。「言語」はあくまで「言語」です。
「相撲」という「国技」がありますが、あのスポーツが「日本」なのでもありません。
「フランス」でも「ロシア」でも、相撲はとれます。
そういう感じで、どこをどう探しても「日本」を見つけ出す事はできないんです。
当たり前です。「日本」に限らず、「アメリカ」だろうと「イタリア」だろうと、あらゆる「国」は、あくまで「決め事」なんです。
国土だって変わります。
このまま北極の氷が溶け続け、海面が上昇していけば、衛星写真が捉える国土も、すっかり様変わりしてしまうでしょう。
大陸だって、大昔から見たら「同じ」とは言えません。それはいつでも「変化しつづけている」んです。
僕たちが「確かにある」と思っている「国家」という概念さえ、永遠不滅ではありません。
韓国やドイツを見てください。その時代時代によって、統合されたり、分裂したり、名称変更したりと、「国家」すら人間の都合に合わせて変えられてしまう、その程度のもの。実体のない幻想なんです。
「日本」だって、何かを機会に変わってしまうかもしれません。
どこかの国と合併してしまうかも知れないし、名称を変更する可能性だって、無いとは言えません。
つまり、本来分け隔てる事ができないものを、無理矢理概念で切り分け、そこに勝手に作ったアイデンティティを付け加えているだけなんです。
「決め事」を「決め事」として解釈できているならまだいいですが、それすら忘れてしまうと、「国家(幻想)」対「国家(幻想)」で喧嘩をし出します。
馬鹿馬鹿しいよね。国を分けているのは自分たちの「概念」なのに。
自分たちが作った「決め事」をすっかり忘れて、それを「実体がある」と錯覚して仕舞っているんです。
まさに、「私(我が国)がある」と思ってしまった所に、問題が生まれています。
さて、とりあえずここまで、理解できますか?
←変わらないように見えても、日々変化しています。
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昨今のニュース番組から流れる『ムーディーズ』という単語を耳にして、
スムーズに「アメリカの格付け会社」が想起できるアナタは常識人。
一瞬ドキッとして「えっ?民放で南波杏!?」となったアナタはただのAVオタク。
毎度どうも!後者です。
…
さて、日常生活において、うかつに「実際には“私”は存在していません。」なんて口にしてしまうと、先のジョークを発した時以上に「この人、大丈夫?」なんて目で見られることになるので、よい子のみんなは気をつけようね♪
ってことで、この受け入れがたい「私が存在しない」ということの、本当の意味を探してみましょう。
「私が存在しない」。これを仏教の専門用語に置き換えると『諸法無我(しょほうむが)』となります。
この「諸法無我」も、その意味を理解すると、言っていることは「諸行無常」や「因縁」とイコールで結ばれるのだということに気付けます。
「因縁」=「諸行無常」=「諸法無我」
上記の公式を文章化すると次のようになります。
『原因と結果の連鎖がある限り、全ては変わり続ける。ゆえに「私」は存在できない。』
現時点では、この言葉の意味がよく理解できないと思います。
順を追ってご説明していきますので、とりあえず上記の公式を頭の片隅に残しておいてください。
では、出来るだけこの事を受け入れられる様、「私」を別なモノに置き換えて考えていきましょう。
と、言うことで、昨日の『「自我」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「私」は存在していないのです。』の単語を入れ替えてみます。
『「国家」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「日本」は存在していないのです。』
「日本」を辞書で引くと「我が国のこと」ですからね。「私」とそう遠くもないでしょう。
どうでしょう?
これならまだ、「私」よりも冷静に考えることが出来るかと思います。
それでもまだ、「いやいやいや!チョット待て! “日本”は確実に存在しているだろう!まさに、今、ここにっ!」ってなってますよね。
いよいよここから、その固定概念を崩していきますよ。ここから先は、子供のように頭を柔らかくして読み進めてください。
では、参ります。
「日本」が存在しているのは、「(日本の存在を知っている)人間の頭の中だけ」です。つまり「幻影」。
なぜなら、誰一人として、あるはずの「日本」を指し示すことはできません。
確かに「国土」は目に見えるものです。ですが「国土」はあくまで「土地・領土」であって、それが「日本」なのではありません。
「領土」や「国境」も、人間が勝手に作り上げた「固定概念」です。
「ここからここまでを日本ということにしよう」という「決め事」でしかありません。
私たちは「日本人」「ジャパニーズ」と呼ばれますが、それが「日本」なのでもありません。
たまたま「日本」と名付けられている土地に生まれたから「日本人」ということになっているだけです。これも人間が勝手に作った「決め事」です。
「日本文化」や「日本特有の生活様式」がありますが、それが「日本」なのでもありません。「文化」はあくまで「文化」です。
「日本語」はありますが、それが「日本」でもありません。「言語」はあくまで「言語」です。
「相撲」という「国技」がありますが、あのスポーツが「日本」なのでもありません。
「フランス」でも「ロシア」でも、相撲はとれます。
そういう感じで、どこをどう探しても「日本」を見つけ出す事はできないんです。
当たり前です。「日本」に限らず、「アメリカ」だろうと「イタリア」だろうと、あらゆる「国」は、あくまで「決め事」なんです。
国土だって変わります。
このまま北極の氷が溶け続け、海面が上昇していけば、衛星写真が捉える国土も、すっかり様変わりしてしまうでしょう。
大陸だって、大昔から見たら「同じ」とは言えません。それはいつでも「変化しつづけている」んです。
僕たちが「確かにある」と思っている「国家」という概念さえ、永遠不滅ではありません。
韓国やドイツを見てください。その時代時代によって、統合されたり、分裂したり、名称変更したりと、「国家」すら人間の都合に合わせて変えられてしまう、その程度のもの。実体のない幻想なんです。
「日本」だって、何かを機会に変わってしまうかもしれません。
どこかの国と合併してしまうかも知れないし、名称を変更する可能性だって、無いとは言えません。
つまり、本来分け隔てる事ができないものを、無理矢理概念で切り分け、そこに勝手に作ったアイデンティティを付け加えているだけなんです。
「決め事」を「決め事」として解釈できているならまだいいですが、それすら忘れてしまうと、「国家(幻想)」対「国家(幻想)」で喧嘩をし出します。
馬鹿馬鹿しいよね。国を分けているのは自分たちの「概念」なのに。
自分たちが作った「決め事」をすっかり忘れて、それを「実体がある」と錯覚して仕舞っているんです。
まさに、「私(我が国)がある」と思ってしまった所に、問題が生まれています。
さて、とりあえずここまで、理解できますか?

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