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死後の世界.9

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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うん。

前回の比喩が何となく理解できたとしても、やっぱりここに行き着くよね。


*****前記事のコメント欄より*****

『「個人としての意識」がどうなるのかが気になります。』

『肉体がそんなふうに輪廻を繰り返すのは解るんですが、心(意識)はどうなんでしょう?』

『意識の問題は少し残ってはいますが…』

*****


コメントを書き込んでくれた方以外の方にも、同様の疑問があったと思います。


そうなんです。重要なのは、まさに、ここなんです。

全ての問題は、この「個人」という意識、「わたしがいる」という感覚から生まれているんです。

この「自己がある(わたしがいる)」という感覚が、宗教や精神世界で『自我(エゴ)』と呼ばれている代物です。


まずは、結論から申し上げます。


*****

自我とは混乱した心が作り出した幻影です。

実際には「私」は存在していないのです。


阿部敏郎の「いまここ塾」からコピペ)

*****


あはは。

このタイミングで、阿部さんも同じ事を書かれています。w


ってことで、今日はちょっと記事編集をサボります。

代わりと言ってはなんですが、どうぞ、今日の阿部さんのブログをご覧になってみて下さい。(多分、僕の説明よりわかりやすいです。)


阿部敏郎の「いまここ塾」
2008年9月24日のエントリ「自己という幻想」
http://abetoshiro.ti-da.net/e2303264.html



皆さんが阿部さんのブログを読み込んでいるその間に、僕はこの先どうやって阿部さんの記事をパクるかを一考します。

いやいやいやいや!! もといっ!!!

皆さんが阿部さんのブログを読み込んでいるその間に、僕は、阿部さんとは別のアプローチ、表現方法を模索します。


では、そう言うことで、今日の所は

アディオス・アミーゴ!!



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死後の世界.8

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ねぇ、どうしたの? 何もしていないのに、大事な所をこんなにパンパンに膨らませて。w

あらあら、こんなに熱くなっちゃって。やだ、隙間から中身がはみ出して見えてるじゃない。

え?何? もう果てちゃいそうなの? ちょっwww いくら何でも早すぎでしょ。

ほんと、だらしのない子ねぇ。。。





ってことで。皆様のご想像通り、僕の携帯電話のバッテリーが、寿命をお迎えになられました。

充電しても、充電しても、ソッコーで電池切れになりやがるんです。

しまいにゃバッテリーのフタを持ち上げる勢いでパンパンに膨れて仕舞いましてね。

そんなこんなで、この週末、ヨドバシカメラで機種変更してきたのですが…

凄いね、最新の携帯電話の機能って。

知ってました?

電話機でテレビが見られるんですよ!予約録画なんかもできちゃうんですよ!(←いまさらです。)

そう言うわけで、只今僕の携帯電話は、「炎神戦隊ゴーオンジャー」と、「YES!プリキュア5GO!GO!」と、「ちびまる子ちゃん」と、「サザエさん」の豪華4本立てでお送りしております。



色んな意味で「怪しい人」扱いをされておりますが、実際は、「やっぱり怪しいらしい」黒斎(35)です。こんにちは。


さて、その怪しさもそのままに、今日は「輪廻転生」のお話をしようと思っております。

先日の、『「Aさんの魂」「Bさんの魂」というような「永遠不滅の個性を持った“個別の魂”という存在はない」』という話がどういう事なのかをご説明できればと考えていたところ、ある比喩を思いつきました。


僕たちの人生を、仮に「雨」だと思ってみてください。

その「雨粒」1つひとつが、僕たち人間です。

雲の中で成長した水滴が雲から離れ、地上に落ちてくる。それが「誕生」です。

そして地上や水上など、雨が着地した時点が「死」です。

「雨粒」は突然パッと現れたのではありません。

大気中の水蒸気が冷えて雲ができ、雲の中で成長した水滴が地上に落ちてくるという現象の「流れ」によって出来たモノです。

「雨粒」がどこに着地しようとも、その存在が「無くなる」ことはありません。

焼けた大地に舞い降りたものは、すぐに蒸発し、水蒸気となり、また空へと帰ってゆくでしょう。

大海原に舞い降りたものは、海水にとけ込み、あらたな躍動を続けるでしょう。その海の表面も、やがて太陽に照らされ蒸発してゆきます。

大空へ舞い上がった水蒸気は、再度雲となり、成長を続け、やがて水滴となって再度大地へ舞い降ります。

原因と結果の連鎖で、その循環をグルグルと繰り返すのです。

ですから、先日降り注いだ雨粒が、同じまま再度降る、と言うことは無いんです。

そういう意味では、「人生(雨粒という個性)は1度きり」です。

でも、「雨粒一つひとつ」という観点から、「水の循環」という観点で捉え方を変えると、「どこにも“誕生”も“死(消滅)”も見いだせない」ということに気付けます。

そう言う意味では、「輪廻転生は繰り返される(雨はまた降る)」です。


どうでしょう?

この比喩から、「輪廻転生」はあっても、「永遠不滅の個性を持った“個別の魂”という存在はない」ということの意味が見えますでしょうか?

また、「あの世」「この世」という世界の境界も、本来は存在していないということが把握できますでしょうか?



←お陰様で好調です。

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死後の世界.7

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某ブログで紹介されるという『原因』によって、アクセス数が急に伸びるという『結果』を手にしました。

「あの世に聞いた、この世の仕組み」の著者、阿部敏郎です。こんにちは。



っていうか、アクセス数がこれだけ上がっているわりには、ブログランキングのクリック数はさほど変わらない、と言うのはどういう事ですかお母さんっ!

(;`⌒´)つ彡☆ パンパン! あたしゃそんなに鼻つまみ者ですかっ!(←ウンコクサイだけに)



ってことで、改めましてこんにちは。

相変わらず支持されているんだかいないんだか微妙なラインのブログ「あの世に聞いた、この世の仕組み」を、ハンカチーフを噛みしめながら綴っている、雲 黒斎(福山雅治 時々 加勢大周)と申します。

名前だけでも覚えて帰ってください。

いや、折角いらっしゃったんですから、記念にボタンぐらいは押して帰ってください。



若手芸人にありがちなフォーマットの挨拶はさておき、お話の続きですよ。

コメント欄の反応を拝見したところ、やはり何か上手く伝わっていないような気がします。(もちろん、みんながみんなと言うワケではないですが。)

ってことで、ちょっとだけ話を戻させてください。


僕は、「あの世はない」という話をしているわけではないですからね。

そうではなくて、本来「ある」「なし」で語れる内容ではない、と言っているだけです。

「魂」についてもそうです。

「魂はない」という話をしているワケではなくて、「Aさんの魂」「Bさんの魂」というような「永遠不滅の個性を持った“個別の魂”という存在はない」と言っているだけです。

どうしても、「あの世はなかったんですね!」とか「魂ってないんですね!あると思ってました!」というように、やはり「ある・なし」を基準とした早合点をされているような気がします。

今回のテーマでお話ししたいのは、まさにその「ある・なし」という判断から一歩引いて見てみましょう、ってことですからね。


先にとりあげさせてもらった「自動車は、安全な乗り物ですか?」という例でも同じです。

自動車を「安全です」という切り口で語ることは可能です。いくらでも話せます。

それはそれで、納得のいく説明ができるはずです。現に各車メーカーさんは、声を大にして主張しています。

「うちの車は安全です。これこれこういう構造です。こういうシステムが、最新のセンサーが、あっちにもこっちにもエアバックが、あれもこれも付いています。」と。

それはそれで、ホントの話です。

逆に、自動車を「危険です」という切り口で語ることも可能です。いくらでも話せます。

「日々これだけの事故が発生しています。世界で毎日○○○人の人命が交通事故によって失われています。先ほど○○高速道では、○○台の玉突き事故が発生し、○○人が重軽傷を負っている模様です。群馬県の○○市では、駐車場で遊んでいた男の子(2)を、祖父の□□さん(67)がひき殺してしまうという痛ましい事故が起きてしまいました。たった今入ってきた情報によりますと、ロックミュージシャンの世良公則さん(52)が東京・表参道で乗用車を運転中、物損事故に巻き込まれた模様です。」と、道路交通情報センターのふじこーさんと報道センターの群さんがラジオを通して話しています。

それはそれで、ホントの話です。(どこまでが?)

なのですが、それは同じ「自動車」をどういう風に解釈しているかということであって、「自動車は、安全な乗り物ですか?」という問いに対しての正確な答えではないわけです。


これを「あの世」や「神」、「霊」などに置き換えても同じなわけですよ。

「ある」という切り口で語ることもできるし、「ない」という切り口で語ることもできる。

聞けば、どちらの話も納得のいく話に聞こえるんです。

でも、そこはやっぱり話の「本質」ではないじゃないですか。そもそもが「ある・なし」で語れないんだから。


だから、「ある・なし」を基準に論争を始めてしまうと、いつまで経っても決着が付かない。

二元論から離れないと、「ある派」と「ない派」は、双方ともに、ずっと本当の事を知らないまま、決裂しっぱなしになっちゃうんです。

全体像を知らないまま、ほんの一部だけを捉えて、それを「真実」だと勘違いしてしまうことになります。


なので、そこから離れ、固定概念を取っ払った、全く別な捉え方で物事を観察してみましょう、というお話なのですが…


通じてますか?



←来場記念に。

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死後の世界.6

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『容疑者Xの献身』の公開も間近となってきた昨今、皆様いかがお過ごしですか。

お久しぶりです。黒斎(フジテレビのまわしもの)です。


さて、そんな僕と瓜二つと噂される福山雅治さんが「ガリレオ」で演じている湯川学という人物。

“天才物理学者”という彼のキャラクターを印象づけるセリフに、こんな基本フレーズがあります。


( ̄д ̄ ) 「思いつきやカンだけで答えを出そうとするのは間違いの始まりだ。全ての現象には、必ず理由がある。」


この、湯川准教授の一言こそがまさに、仏教で言われる「因縁(いんねん)」の説明です。


全ての現象(結果)には、必ず理由(原因と条件)がある。

その原因(因)と条件(縁)を考えずに、思いつきやカン(妄想や感情)で答えを出そうとするから、苦悩が生まれる。



さて、これも森羅万象をありのままに観察して確認してみましょう。

『全ての現象(結果)には、必ず「理由(原因と条件)」がある。』

やはり、「全ての存在は変化し続ける(諸行無常)」と同様に、反論のしようがありません。

理屈は通用しません。そういう「法則」なんです。逆らいたくても逆らえない「真理」です。


ここで改めて「因縁」の法則をわかりやすく説明します。

「因縁」の「因」は、『原因』のことです。

「因縁」の「縁」は、『条件』のことです。

お茶をいれようと思ったら、「お湯」が必要だと気づきました。

そこで、ガス台に火をつけて、やかんに入った水を沸かすことにします。

この時の、「火・炎」が『因(原因)』で、その『結果』が「お湯」です。

「炎」という原因から「お湯」という結果に至るまでに必要だった、「やかん」「炎の大きさ」「炎とやかんの間にある空間」「(炎が炎として存在できるために必要な)酸素」などが『縁(条件)』となります。

この時、存在するモノだけが『縁』ではありません。存在しないものもまた『縁』です。

例えば、ガス台とやかんの間に熱を通さない障害物があったとしたら、「お湯」という結果は得られません。

なので、「障害物がない」ということもまた『縁(条件)』です。


全ての現象(結果)は、何らかの『原因』と『条件』の結びつきで成り立っています。

『原因』と『条件』が、ほんのチョットでも異なると、『結果』が変わります。

同じ「炎」でも、「火力」という『条件』が異なれば、お湯ではなく、ぬるま湯にしかならないかもしれません。

部屋に酸素がなければ、「火」がつかないので、いつまでも水は水のままです。


そして、「お湯」という『結果』もまた、次なる現象(お茶)の『原因』や『条件』となります。


「今」目の前にある『結果』は、「過去」の『原因』と『条件』で成り立っています。

「今」目の前にある『結果』は、「未来」に現れる現象の『原因』や『条件』となります。

つまり、今あるすべては『結果』であると同時に『原因』です。

『原因』があって『結果』が無い、と言うことはありえません。

『条件』が伴っていないのに『結果』に繋がるということもありえません。


あれ?

この話、どこかで見たことがありましたよね?


そうです。

ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則(AS A MAN THINKETH)』です。


『原因』は、その原因にふさわしい『結果』に繋がります。

何かをなせば、なしたなりの結果が現れます。

何もしなければ、しないなりの結果が現れます。

つまり、原因がある限り、原因と結果の連鎖は一時も止まらずに動き続けるのです。


ってことはですよ。

「諸行無常(存在は変化し続ける)」は、「因縁(原因と結果は連鎖し続ける)」と同じことなワケです。

すなわち、「諸行無常」=「因縁」。

この流れは1本の線で表せる様な単純なものではありません。様々な因と縁が、様々な因と縁で多次元的に絡み合う、想像を絶する難解なネットワークです。

それが世界の成り立ち、からくりです。





ある人はこう言います。

「頭の中で考えているだけなら、誰にも迷惑をかけていないんだから、悪いことを考えようと自由だよね?」


お釈迦様やジェームズ・アレンは、こう答えるでしょう。

(  ̄Д ̄) 『バカ言うな。その「思考」も「原因・条件」の一つだ。「悪い原因」からは「悪い結果」しか生まれない。「正しい結果」が欲しければ、「正しい原因」であれ。だから私は言うのだ「思考(あり方)は現実化する」と。』




「頭の中で考えているだけなら、誰にも迷惑をかけていないんだから、悪いことを考えようと自由だよね?」は、間違いです。

それは「自由」ではありません。

原因と結果の繋がり(因縁の法則)が見えずにいる、盲目(無明)という名の「不自由」です。



←「クリック」が『因』。「ボタン」が『縁』。「ランキング」が『結果』。

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死後の世界.5

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引き続き、執拗に「Reader's Choice」でのコメント大募集中!

ご協力のほど、よろしくお願いいたします!


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「そもそも生まれていないのだよ、ワトソン君。」


…そんなこと言われても、ちっともピンときません。という方も多いことでしょう。

もしくは、「ふ~ん。仏教って、そういう“思想”なんだ~。」と解釈されてしまった人もいらっしゃるかもしれません。


なのですが、このお話は夢物語でも、斬新な思想でもありません。

誰しもが、「実際に確認することが出来る事実」なんです。


と、いうわけで、今日はそんな話をしようと思うのですが、ここでチョット注意点を申し上げておきます。

今日のお話は若干哲学的な解釈が必要となります。

これまでの知識、常識、希望的観測等を取っ払って、「森羅万象をありのままに観る」というスタンスでお付き合いください。

また、文章や単語の意味に惑わされず、その言葉の向こう側にある「ニュアンス」をつかみ取れるよう努力してください。

では、まいります。


誰一人、何一つ、生まれることはありません。

それを証拠に、あなたも何かの「誕生」を発見することはできません。

「誕生」という概念自体が、実在しない「妄想」だからです。

人は、「出産」を見ることは出来ますが、「生命の誕生」を見ることはできません。

その子は、誕生したのではなく、母親のお腹から出てきただけです。

受精の瞬間を電子顕微鏡で観察しても同じです。

そこに「雌性生殖細胞の卵に雄性生殖細胞の精子が融合し、両者のもつ核が合体する」という変化を観察することはできても、「生命の誕生」を捉えることは出来ません。

植物の種から「芽が出る」という現象を見ることが出来ますが、それイコール「生命の誕生」ではありません。

その芽は、誕生したのではなく、種から変貌を遂げただけです。


そこにあるのは、「生命の誕生」ではなく、「絶え間ない変化」なんです。

その絶え間ない変化の中に、無理矢理「誕生」という実在しない概念を入れ込んでいるだけなんです。


「生」に対して「死」にも同様の事が言えます。

私たちは、「死体」を見ることは出来ても「死」を発見することはできません。

花が枯れゆく様子を見ることは出来ても「死」を発見することはできません。


「存在」は、存在している以上「消滅する」ということができません。

そこにあるのは「消滅」ではなく、「状態の変化」なんです。

ですから、「存在が途中で無くなる」ということはあり得ません。


例を出します。

コップに水を入れ、それを一定期間放置しましょう。

すると、いつの間にかコップの中から水は無くなります。

ですが、その水は「存在が消滅した」のではありません。「気化(液体が気体に変わる現象)」して、その存在状態が変化しただけです。


昼食を作りましょう。

お椀や器に沢山の料理が並んでいます。

そのご飯を食べれば、当然お皿の上の食料は無くなります。

ですが、ご飯はその存在が消失したわけではありません。

あなたのお腹の中で、その状態を変化させて存在し続けています。


つまり、「存在」=「変化の連鎖」=「生命」なんです。

存在は、これまでも、これからも、ずっと存在し続けます。

その存在は常に変化し続けているため、「固定された実体」になることはできません。


それが、「諸行無常」という4文字に込められた意味です。

ですから、ここで使われている「無常」は一般的な「儚い・虚しい」といった意味ではありません。


さて、ここで。

私たちは今「存在」しています。

故に私たちが認識出来る全てのモノは「存在」しています。

つまり、全てのモノは「絶え間ない変化の連鎖」を続けています。


何か1つでも「変化していない存在」「動いていない存在」を発見してみてください。

もし発見出来たとしたら、あなたはお釈迦様の論理を覆すという快挙をなしとげられます。



←ここのところ、ずっとこんな感じです。両手に花、ならぬ、上下に阿部。

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