富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の摂理による、ヨセフと兄弟たちの再会」 創世記45章1~15節

2013-11-10 23:44:02 | 礼拝説教

                   上の地図「エジプトに至るヨセフの経路」は、「地図と絵画で読む聖書大百科」p67より、転載。

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403  日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

 週  報 

降誕前第七主日     2013年11月10日(日)    5時~5時50分 

礼 拝 順 序  

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  創世記45章1     ~15節

説 教 「神の摂理によるヨセフと兄弟たちの再会」辺見宗邦師

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 2013年11月17日(日)午後5時~5時50分

聖書  創世記46章1-7節,28-30節

説教  「エジプトでのヤコブとヨセフの再会」

交読詩編 133 讃美歌 206 355 27

本日の聖書 創世記451~15

 1ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 2ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。 3ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 4ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。

 5しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 6この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。 7神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 8わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 9急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。 10そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。 11そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』 12さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。 13エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」 14ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。 15ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

本日の説教

 先週の礼拝では、創世記35章のヤコブがシケムで10年ほど住んだあと、ベテルに上る箇所について学びました。ヤコブはこのあと、ヘブロンの父イサクのところに向かいます。ベテルを出発して、エフラタへ行く途中、ラケルは二人目の子を産みましたが、難産のため死にました。ラケルは死に臨もうとする時、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付たが、ヤコブはその子をベニヤミン(幸いの子)と呼びました。ラケルは死んで、エフラタ、今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られました。

        

     ラケルの墓。        オスマン帝国時代現在見られるドームおよび祭壇建造された。

  ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住みました。ヤコブは、ラケルとの間に生まれた子、ヨセフとベニヤミンを溺愛しました。ヨセフは、ヤコブ(イスラエル)が91歳の時に生まれた年寄り子です。ヨセフは、そのために兄たちの妬みをかいます。兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていたとき、父に言われて、兄たちが元気でやっているか見届けてくように、ヨセフを言われました。そこでヘブロンからシケムに行くと、兄たちはドタンに行ったと教えてくれる人がいたので、ヨセフはドタンに行き、兄たちを見つけます。しかし、兄たちに殺されそうになり、ついには、ギレアドの方からやってきて、エジプトに向かう、イシュマエル人のらくだを引いた隊商に、、銀20枚で奴隷として売られてしまいました。兄たちは、それを隠すために、ヨセフが悪い獣に噛み裂かれたかのように見せかけって、父をだましたのです。

  ヨセフがいなくなってから12年後、父イサクが180歳の長寿を全うして死にました。ヤコブは父を看取り、兄のエサウと共に、アバラハムとサラの眠る墓に葬りました。

 ヨセフ17歳は、(創世記37章2節)参照。

   一方、ヨセフは、仕えることになった主人の信頼を得て家の切り盛りを任されるまでになったのですが、主人の妻に無実の罪を着せられて牢獄に捕われる身となってしまいました。しかしそこで、同じく捕えられていたエジプト王ファラオの役人の夢の意味を解き明かしたことがきっかけとなり、ファラオの夢を解き明かすために召し出され、それを見事に解き明かしたためにファラオの全幅の信頼を得て、エジプトの総理大臣に抜擢されたのです。

 ヨセフが解き明かしたファラオの夢の意味は、今後七年間エジプトには大豊作が続くが、その後の七年間は大飢饉となり、穀物が全く採れなくなる、ということでした。それゆえにこの七年の内にしっかりと食料の備蓄をして飢饉に備えるようにとヨセフはファラオに進言し、ファラオはその仕事をヨセフに任せるために彼を総理大臣に抜擢したのです。ヨセフの予言の通り、七年の豊作の後に飢饉が起りました。

 ヨセフがいなくなってから、20年後カナンの地でも飢饉が始まりました。それから2年後、ヤコブは、ベニヤミンを除いた十人の息子たちにエジプトへ穀物を買いに行かせました。

ヨセフをエジプトに売ってから22年間は、ヨセフは奴隷として、そして牢獄に入れられていた時を合わせると、13年間、それから7年の豊作、そしておそらく2年くらいの飢饉、合わせて22年を過ごしたことになります。

 エジプトに来た兄たちは、大臣であるヨセフの前に出て、穀物を売ってくれるように願いました。彼らは、目の前のエジプトの総理大臣が弟ヨセフだとは全く気づきません。しかしヨセフの方はすぐにそれが兄たちであると分かりました。ヨセフは自分の正体を隠したまま、兄たちに厳しく接し、「お前たちはこの国の弱点を探りに来たスパイだろう」と嫌疑をかけました。兄たちが必死にそれを否定し、自分たちはカナンの地に住む者であり、国には年老いた父と、末の弟がいることを説明しました。その末の弟とは、ヨセフと同じくラケルを母として生まれた弟ベニヤミンです。ヨセフは、「今回のところは穀物を売ってやるが、兄弟の一人を人質として置いていけ、そして次に来る時には、末の弟を必ず連れて来い」と命じました。そこで兄弟の一人シメオンが人質として残り、兄たちは国に帰りました。ここまでが42章です。

   

  彼らが帰って来たとき、父ヤコブはシメオンがおらず、しかも今度、穀物を買いに行く時には、ベニヤミンを連れて行かなければならないことを、知ったのです。

ヤコブは、「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ」と声を震わせて自分の不運を嘆きました(42:36)。ルベンが父を説得しましたが、彼はベニヤミンを連れて行くことを頑として承知しませんでした。

 しかし飢饉はなお続き、持ち帰った穀物も食べ尽くされてしまいました。さすがのヤコブも飢えには勝てず、息子たちに穀物を買いに行くように言いました。ユダが、弟が一緒でなければ、行くわけにはいきません、と断ると、ヤコブは、「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをするのか」とやり場のない怒りをぶつけました(43:6)。

 ルベンに続いて、ユダが懸命に説得しました。「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。(43:8,9)」

 ついにヤコブは「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。・・このわたしがどうしても子供を失わなければならないのなら、失ってもよい」(43:13,14)と悲愴な決心をしたのです。

 ヤコブ(イスラエル)の9人の息子たちは、贈り物を携え、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下りました。ヨセフと二回目の再会の後も、兄たちはまだ目の前のエジプトの大臣がヨセフであることに気付きませんでした。

  ヨセフは彼らを屋敷に招き、特に同じ母から生まれた弟であるベニヤミンを歓迎します。彼らが食料を携えて国に帰ろうとする時、ヨセフは執事たちに命じて、ベニヤミンの袋に、自分の銀の杯を密かに入れさせておきました。そして彼らがまだ遠くへ行かないうちに追っ手を差し向け、お前たちの中に私の杯を盗んだ者がいる、と追求させます。一人一人の袋を調べると、ベニヤミンの袋からそれが見つかります。彼らは絶望の内にヨセフのもとに引き返し、ユダは、「この上は私たち兄弟全員が奴隷になります」と言います。それに対してヨセフは、「杯を持っていたベニヤミンだけを奴隷にする、後の者は国に帰れ」と言ったのです。

  兄弟たちは再び、ヨセフの屋敷に連れて行かれました。ヨセフは言います。「杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい(44:17)」これを聞いたユダがヨセフに対して語り始めます。ここでユダは今までのいきさつを語ります。そして、このベニヤミンが帰らなければ、父ヤコブは死んでしまうでしょう、そんなことは出来ない。そして「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。(44:33,34」と言ったのです。

  あの二十二年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのはこのユダでした。ユダが、ここでは父ヤコブの為に、ヤコブが溺愛しているベニヤミンの代わりに自分が奴隷になると申し出たのです。このユダは、明らかに22年前の彼とは変わっています。ユダを始めとする兄たちは、二十二年前に自分たちが犯した罪と向き合い、そのことを心から後悔し、悔い改めているのです。

  ここからが、創世記45章です。ヨセフは、このユダの言葉を聞いて堪えきれず、声をあげて泣き、「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」と自分の身を明かすのです。兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができませんでした。

 その時ヨセフは兄弟たちにこう言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。(4~8節)」

  7節「この国にあなたたちの残りの者を与え」という訳ですが、分かりにくい訳です。<スーム>というヘブライ語を<与え>と訳しているのでが、<スーム>の原語<シーム>は、「置く」という意味です。ですから、この7節の部分は、「この国にあなたがたのために残りの者(生存者・子孫)を置くために(残すために)」と訳す方が分かりやすいと思います。改訂訳聖書は、この部分を「あなたがたのために残りの者をこの地に残し」と訳していますが、分かりやすい訳だと思います。

  ヨセフは兄たちに、22年前に自分をエジプトへ売ったことを、悔やんだり、責め合ったりする必要はない、と言ったのです。「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」とあります。今、兄たちとヨセフの間に、語り合いが、交わりが、平和が回復されました。神の導きによって罪を犯した者が悔い改めへと導かれ、またその罪によって傷つけられ、苦しみと悲しみを受けた者が、やはり神の摂理を信じて、その苦しみや悲しみの全てを、神様を主語として語り直すことができた時、そこには、語り合いが、本当に平和な関係が回復されていくのです。

  ヨセフ物語は、神の摂理ということを教えています。「摂理」とは、神様がこの世の全てのことを支配し、導いておられる、ということです。私たちの人生と、そこに起る全てのことが、神様のご支配、導きの中にあると信じる、それが神の摂理を信じることです。これは、聖書が語る信仰の中心をなす大切な教えです。神を信じるとは、神の存在を信じることに留まるのではなくて、神の摂理を信じることなのです。

  <摂理>と言う言葉は、<自然の摂理>と言うときは、「自然界を支配する法則」を言いますが、<神の摂理>というときは、「すべてのことが神の配慮によって導かれている>という意味になります。日本語の<摂理>に当たる英語は、「与える,供給する」の意味のプロヴァイド(provide)の類語「プロビデンスprovidence」です。その語源は、ラテン語の「前を、あらかじめ」(pro)+「見る、配慮する(videre)」の合成語です。

摂理信仰とは、このように神の世界支配を信じ、創造者である愛の神様が、ご自分の意志によって私たちの人生を導いてくださり、すべてを益となるように働いてくださるということであります。このことを信じて生きる時に、いかなる時も希望をもって生きることができ、人生に絶望するということはないのであります。

 父なる神は御子キリストによって、罪と死に打ち勝つ復活と永遠の生命と、神の国を、私たちのために用意してくださった方です。ですから、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)。

 

 

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