↑ 15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。 16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節17主日 2024年9月8日(日)午後3時~3時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 齋藤 美保姉
讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)
交読詩篇 23(主は羊飼い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ぺトロの手紙一2章11~25節(新p.430)
説 教 「神の僕として生きる」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 311(血しおしたたる)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019
牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。
次週礼拝 9月15日(日)午後3時~3時50分
聖 書 エフェソの信徒への手紙3章14~21節
説教題 「キリストの住まい」
讃美歌(21) 313 27 詩編 103
本日の聖書 ぺトロの手紙一2章11~25節
11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。 13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、 14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。 16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 22「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
本日の説教
この手紙は、迫害のもとで苦しんでいたキリスト者の教会に対し、洗礼の恵みを思い出させ終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方をすすめた文書です。
2章の11節以下は、異教社会に生きるキリスト者への実際的な勧告です。
「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(11、12節)
キリスト者はこの世では旅人として生きるのです。その旅はこの世の事柄に対して無関心になり、逃避的な生活をすることではありません。キリスト者の旅とは、キリストの苦難に参与する旅であり、そして神の栄光を証しする旅です。キリスト者は神の民として、この世に対して義務を負わされているのです。ゆえにキリスト者はまず、復活のキリストによって与えられた新しい命をもつ<魂>を破壊しようと<戦いを挑む肉の欲>を避けなければなりません。ここで言われている<肉の欲>は、4章3節にあるように「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた」とあるような欲望です。
また、<また、異教徒の間で立派に生活しなさい>と言われてます。この御言葉は、まさに、日本で生きている私達キリスト者にもあてはまる御言葉です。<立派に生活しなさい>とは、欠けと弱さと罪を抱えている私たちが、主イエスによって救われ、イエス・キリストによって与えられた自由を、神の僕として、神のみ心に従うとき、聖霊の働きによって立派な生活ができるのです。
キリスト者に対する周囲からの偏見や中傷や敵意がある中で、<彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても>、キリスト者の立派な生活によって改心し、神を賛美することになるでしょう。<訪れの日>とは、世の終わに主イエスが再び来てくださる日であるだけでなく、主イエスがまだ神を信じていない方々に出会ってくださる日のことでもあります。
「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」(13~15節)
<主のために>人間の立てた制度に従いなさい、と勧めています。キリスト者が制度に従うのは、(1)「服従の生涯を貫かれたキリストのゆえに、そしてキリスト者もそのキリストに従うゆえに」、(2)「主に仕えるために」、(3「人々に主を証しすることになるために」などが考えられます。
ローマ帝国の皇帝も、地方に派遣された総督も、彼らの主な職務は秩序を維持することでした。秩序維持は創造主の意志であり、またキリスト者が立派な生活をして<愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だから>彼らに服従しなさい、と言っています。<無知な発言>とは、ここではキリスト者に対する誹謗中傷を指しています。この勧告は迫害を回避するためにローマ帝国に迎合しなさいという教えではありません。
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」(16節)
初代教会は基本的に<キリスト・イエスによって得ている自由>(ガラテヤ2:4、5:13)を確信していました。政治的制度に従えという勧告がその確信をゆるがすことのないために著者は<自由な人として>服従しなさいと言います。キリスト者の自由は気ままとか、無秩序と混同されてはなりません。「神は無秩序の神ではなく、平和の神」(コリント一、14:33)だからです。キリスト者の自由が罪への自由ではなく、罪からの自由であり、義(正しい行い)への自由です。それゆえ、キリスト者の自由は、<神の僕>にふさわしく、神と隣人への奉仕という服従の生活において全うされるのです。
「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(17節)
<すべての人を敬い、兄弟を愛し>とあるように、私たちはクリスチャンもクリスチャンでない方々も区別なく、敬い、愛すことが求められています。また、<神を畏れ、皇帝を敬いなさい>と勧められています。神に対しては<畏敬>するという語が使われています。<皇帝を敬いなさい>は、私たちにとってつまづきを覚える言葉です。<皇帝を敬いなさい>とは為政者を批判してはいけない、ということではありません。時には私たちは為政者を信頼できないこたがあります。ウクライナに侵略戦争をするロシヤのプーチン大統領やパレスチナのガザ地区を無差別に攻撃するイスラエルのネタニヤフ首相です。恐ろしことに暗殺されればよい、とまで思うことがありますが、<神を畏れ、皇帝を敬いなさい>とあるように、神のみを畏れ、為政者を恐れることなく、為政者のために執り成しの祈りをすることが求められているのです。
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」(18~20節)
<召し使いたち>は、家族の一員のように扱われていた奴隷身分の使用人を指していると思われます。新約聖書の時代の地中海沿岸の社会は経済的にも政治的にも奴隷制に依存しており、多くの職業に奴隷は従事しており、良好な生活条件であったと思われます。初期の多くのキリスト者は奴隷でした。それゆえ試練は、キリスト者の奴隷がその異教徒の主人から受けるような種類のものでした。新約聖書の著者たちは、人権という近代的視点から奴隷制を問題にしていません。<心からおそれ敬って>とは、神に対する畏敬の念と同じ思いを持ってという意味で、宗教的動機が強調されています。不当な苦しみに耐えることが神の意志だとわきまえるなら、それは神に受け入れられる恵みなのです、と教えています。更に積極的に<善を行って>苦難に耐えることは神の眼から見ればすばらしいことであると強調します。
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(21節)
私たちのために苦しみを受けてくださったキリストに目を向けるとき、私たちは自分の受ける苦しみを通して、キリストの苦しみに与かっていることを気づかされます。キリストが残された模範とは、十字架の苦しみを前にして神のみ心を求められたキリストのように、苦しみの中で神のみ心を求めて生きることこそ、キリストが残された模範に倣うことです。
「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(22節-24節)
<この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。>は、イザヤ書53章9節の引用です。ペトロはイザヤ書の預言が、キリストの十字架の死によって実現したことを告げているのです。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました>は、イザヤ書53章7節の引用です。苦難の僕の姿をもってキリストの受難が語られています。キリストは迫害者に敵対する行動を起こさず、自分の運命も含めてすべてを神に任せました。
イザヤ書の場合は、人々の罪が僕の上に置かれ、彼は民のためにいけにえとして苦難を受けたという意味ですが、ここでは、キリストが人間の罪を担って恥の十字架の上にかけられたというだけでなく、祭司として罪のいけにえ(自分自身)を十字架の祭壇の上にもってきて置いたことをも示しています。ここには、キリストが祭司自身であると同時にその祭司自身がいけにえでもあったというキリストの受難理解があります。キリストの死は、信徒を罪から解放し、神との正し関係にしてくれるのです。そして最後に、あなたがたは異教徒から改心して今はキリストによってしっかり守られていると、現実を指摘します。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)
かつて羊のようにさまよっていた私たちが、今は、魂の牧者であり、監督者であるキリストのもとで生きていると言うのです。いついかなるときも、私たちがキリストによって導かれ、守られていることになります。どんなときも、キリストによって守られているという確信が与えられているからこそ、私たちは絶望することなく、忍耐して生きることが出来るのです。