↑ Pierre Bouillon ピエール・ブイヨン(1776 年– 1831年) フランスの画家
作品「イエス、ナインのやもめの息子を生き返らせる」1014x487
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日本福音教団 富 谷 教 会
週 報
聖霊降臨節第8主日 2021年7月11日(日)
午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を
成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 533(どんなときでも)
交読詩編 18篇1-20節(主よ、あなたをあがめます)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書7章11-17節(新p.115)
説 教 「死の克服:やもめの息子を生き返らせる」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 474(わが身の望みは)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。
次週礼拝 7月18日(日)午後5時~5時50分
聖 書 フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節
説教題 「主によってしっかり立ちなさい」
讃美歌(21) 474 521 27 交読詩編 95
本日の聖書 ルカによる福音書7章11-17節
7:11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
本日の説教
「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。」(7:11)
イエスはガリラヤ湖畔の町カファルナウムで百人隊長の僕が病気で死にかかっているのを癒されたあと間もなく、ナインの町へ行きました。ナインの町はカファルナウムから南西30キロほど、一日路の距離です。ガリラヤのナザレの南東9キロ、タボル山のふもとにあります。弟子たちや大勢の人々もイエスと一緒でした。
「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」(7:12)
イエスのガリラヤでの活動
イエスの一行が町の門に近づくと、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、町の門から棺おけが担ぎ出されるところに出くわしました。棺はおそらく簡素な蓋のない担架のようなものだったでしょう。埋葬の場所は町の外にありました。死んだ一人息子は、14節で主イエスが「若者よ」と呼びかけているので、若くして死んだ青年です。その母親は先に夫を亡くし、今度は頼りにしていた一人息子まで死なれた女性です。町の人が大勢、棺おけそばに付き添っていました。この母親と同様に、町の人々もこの冷酷な死の現実に打ちのめされ、同情を寄せている人達でした。愛する家族の者の死ほど、人生の中でつらく悲しいことはありません。
「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」(7:13)
主イエスはこの夫を亡くし、女手一つで育てた一人息子に先立たれた母親を見て憐れに思い、近づいて「もう泣かなくともよい」と言われました。<憐れに思い>は、この言葉の原語には「内臓」という言葉が用いられています。「内臓(はらわた)が激しく動く」ような痛みをともなう同情の心を示します。私たちが気の毒な人を見て感じる憐れみの思いとは違い、主イエスについてのみ用いられることばです。私たちではどうすことも出来ない、同情としての<憐れみ>とは違う、主としての、救い主としての憐れみです。死んだ者を死の支配から解放し、絶望して泣いている者を泣き止ませる力を持った、愛に満ちた憐れみ、同情なのです。
この「憐れに思い」の言葉は、「放蕩息子」のたとえで、父親が帰ってきた息子の姿を見つけて、<憐れに思い>走り寄った(ルカ15:20)とあります。また「善いサマリア人」の物語では、追いはぎに半殺しされた人をサマリア人が見て、<憐れに思い>、近寄った(ルカ10:33)と用いられています。
「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。」(7:14)
当時の葬列の慣習からすると、母が先頭に立っていたのだと考える人もいます。主は葬列の先頭に近づいて、棺おけに手を触れられ、担いでいる人たちの歩みを止めました。そしてイエスは生きてる人に言うように、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じました。
「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」(7:15)
すると、死人は起き上がってものを言い始めました。イエスは息子をその母親にお返しになりました。
死人を生き返らせる主は、復活後の命にあふれるの主の力を、すでに地上で行使しました。アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです(コリント一、15:22)。イエスがこのような意味での主であることは、洗礼者ヨハネから主のもとに送られて来た使者に対して、イエスは<死者は生き返>っているという、イザヤ書の引用(イザヤ26:19)の伝言を伝えている(ルカ7:22)ことからも理解できます。ここでの<主>は、敬語ではなく、メシア(救い主)としての主なのです。
生き返った子を母親の返すという表現は、エリアの奇跡(列王上17:23)と一致します。しかしイエスはエリアと違って、一言で生き返らせています。エリアは三度も主に祈っています。旧約の預言者に対するイエスの優越性が示されています。
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。」(7:16)
神を賛美する<人々>は、弟子たちとイエスとともに来た大勢の人々と、町の門の所で合流したやもめに付き添っていた大勢の町の人々です。人々は皆神の力そのものに触れる恐れを覚えつつ、神を賛美して、<大預言者が我々の間に現れた>と言い、<神がその民を顧みてくださった>と言いました。原語では<神がその民を訪れた>です。神がその民の所に来てくださったのです。
人々は旧約の大預言者エリアのことを思い起したのでしょう。列王記上17章に出てくるエリヤです。エリヤがサレプタという所の一人のやもめのもとに身を寄せていた時のことが語られています。ところがこのやもめの息子が病気になり、死んでしまいました。しかしエリヤが神様に祈り、この子の命を元に返してください、と三度も願うと、神様はその子供を生き返らせて下さったのです。エリヤは、やもめの死んだ息子を生き返らせる奇跡を行なった預言者です。
また旧約時代、ナインの町の近くにあった、シュネムという町で、エリヤの弟子の預言者エリシャが男の子供を生き返らせています(列王記下4:32-37)。
主イエスがナインのやもめの息子を復活させたのを見た人々は、この話を思い出し、主イエスのことを、大預言者エリヤやエリシャのような預言者の再来だと思ったのです。主イエスは彼らの再来ではなく、彼らこそ、やがて救い主として来られるイエス・キリストを指し示しているのです。この奇跡は主なる神が働いてくださったことによって起ったのであり、これは神の救いが訪れたことを表現しています。
「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」(7:17)
<イエスについてのこの話>は単なるうわさだけではなく、イエスは主、大預言者であるということの宣教をも意味します。そしてそれはユダヤ全土を超えていくべき性質のものでもあります。
死に対して人間は無力です。愛する家族との死別は人間にとって最もつらい、悲しい出来事です。私は高校生になった頃、いつかやってくる親との死別を思い、この死の問題で悩みました。この死のある世界に生れてこなければよかったと思うようになり、両親にそのことを思いき切って打ち明けました。両親は黙って聞くだけでした。「わたしを生んでくれてありがとう」と言ったのではありません。どんなに両親の心を痛めたか分かりません。
しかし、高校二年生の頃から教会に行くようになり、礼拝や祈祷会で聖書の教えを聞いて、死は人間の罪の結果によるものであり、その罪を赦し、救うためにイエス様が世に来てくださったことを知り、罪人のために十字架の死を遂げてくださった神の愛を知りました。私が生まれてこなければよかったと思った死のあるこの世界に、神の子イエス様が生まれてくださったということは、わたしにとってありがたい救いとなりました。
こんな、死人を生かす奇跡は本当にあったのか、と誰しもいぶかるのではないでしょうか。主イエスが死人をよみがえらせた記事は、聖書に三つあります。一つはこのナインのやもめの息子、もう一つは会堂長ヤイロの娘(ルカ8:49-56)、そしてヨハネによる福音書にあるラザロです(ヨハネ11:38-44)。
これらの奇跡は主イエスには死を打ち破る力があることを示し、また主イエス・キリストの復活の出来事を指し示し、そしてキリストを主と受け入れる者全てに与えられるまことの救い、すなわち、罪の赦し・体のよみがえり・永遠の命を指し示したのです。
死を悼む際には、涙を流すのが当然です。イエスも、愛する兄弟ラザロを失って泣いているマリアを見て「涙を流されました」(ヨハネ11:35)。悲痛な悲しみを引き起こす死に対して、イエスは二度も憤りました。主イエスは父なる神に願い、ラザロを生き返らせました。
主イエスは私たちにも「もう泣かなくともよい」と言われています。死んだ愛する人は、無の闇の中に失われたのではなく、神の優しく力強い手の中に生かされているのです。主イエスは死を滅ぼし、死のとげ(コリント二,15:56-57)を取り去り、死の恐怖から解放してくださいました。死は終わりではなく、主イエスと共に生きる通過点です。イエスの愛は死の力より強いのです。イエス様はどんなときも共にいてくださり、私たちを天国に導いてくださり、死別した最愛の人たちと共に神の国を継ぐ者としてくださるのです。