富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「奇跡を行うキリスト」 ルカによる福音書9章10-17節

2019-02-27 22:02:37 | キリスト教

  ↑ ジョヴァンニ・ガスパーレ・ランフランコGiovanni Lanfranco (1582-1647) 「パンと魚の奇跡」1620年作、 所蔵:National Gallery of Ireland, Dublin  (イタリア・バロック期を代表する画家の一人)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     降誕節第10主日 2019年3月3日(日)    午後5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 132(涸れた谷間に野の鹿が)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書9章10-17節(新p.121)

説  教    「奇跡を行うキリスト」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 198(二ひきのさかなと)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝 3月10日(日) 午後5時~5時50分 

              聖 書  ルカによる福音書4章1-13節

              説教題   「荒れ野の誘惑」 

              讃美歌(21) 83 284 24 交読詩編 66

     本日の聖書 ルカによる福音書9章10-17節

  9:10使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。 11群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。 12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」 13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 09:17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

        本日の説教

 今日の聖書の箇所には、主イエスが、二匹の魚と五つのパンで五千人もの人々を満腹させたという出来事が記されています。この物語は、到底ありえない話として決め付けてしまう人もいると思います。聖書の中には、たくさんの奇蹟物語(35場面)が記されていますが、その中でもこの奇蹟物語は、まさに信じられないことが起こった奇蹟であり、キリストを信じる者にとってもつまずきの石となるものです。

  この供食(きょうしょく)の物語は四つの福音書すべてに記されている唯一の出来事です(マタイ14:13-21、マルコ6:30-44、ヨハネ6:1-14)。恐らく、この奇跡の物語は最初の教会にとって、忘れられない大切な救いの物語として、その心に深く刻まれたのだと思います。教会はこの出来事の中のイエスに、まことの救い主としての姿を見出したのです。

 今日の聖書の箇所の前の9章1~6節に、イエスが十二人の弟子を神の国を宣べ伝えるために派遣したことが記されています。その任務を果たすために、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権威と力を弟子たちに与えて、派遣しました。宣教の旅には、お金や食料や予備の服などを携行せず、全面的に神に依存しなければならないと、イエスは指示しました。十二人は出かけて行き、村から村へと至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやしました。

 そして、今日の聖書の箇所に入ります。イエスは十二人(使徒と言う言葉に変わる)から宣教の報告を受け、彼らを連れて群衆から離れベトサイダに退きました。ベトサイダは、ガリラヤ湖の北東の岸にある町です。ベトサイダは、ペトロやアンデレやフィリポの故郷です(ヨハネ1・44)。イエスの一行は食事をする暇もなかったためしばらく休むためでした。また祈りと回復のためでもありました。その町から更に離れた「人里離れた所」に移動しました(マルコ6:32)。

  そのことを知った群衆はイエスの後を追いました。集まった大勢の群衆を見て、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ6・34)、神の国について語り、治療の必要な人々を癒しておられました。日没がせまっていました。十二人はイエスのそばに来て、群衆を解散させてください。そうすれば近くの村や人里へ行って、宿をとり、食べ物を見つけるでしょう、と言いました。イエスが癒しと説教を止めれば、群衆は帰ると思ったのです。十二人は人々への純粋な気遣いを示したのです。

 しかし、イエスは十二人に、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちに与えた権威と力で、食べ物を与えるようにと言われたのです。しかし、弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と答えたのです。ヨハネによる福音書によると、一人の少年が「大麦のパン五つと魚二匹とを持って」いた、とあります。パンと魚というのは、ガリラヤの庶民の食事の基本でした。五つのパンと二匹の魚だけでは、男だけでも五千人以上もいる人々の食糧には、無いにも等しいことは明らかです。近くの村に行ったとしても、五千人分の食糧を調達することは不可能です。その食糧を買い求める金もありませんでした。

 弟子たちには出来ないことが分かったイエスは、人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさいと、弟子たちに命じました。一組五十人ぐらいが、百組以上できたことになります。弟子たちは、そのようにして全員を座らせました。この座る姿勢は、ユダヤ人の食事をとる姿勢にさせたことになります。

      五つのパンと二匹の魚

   すると、イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して群衆に配らせました。聖餐式で使う言葉(取り、祝福し、裂き、与えた)が語られています(ルカ22:19)。すべての人が食べて満腹しました。残ったパンの屑を集めると十二籠もありました。少しでも残ったということは、十二分の食糧であったということです。

  

  この「五千人に食べ物を与えた」物語は、旧約時代の故事を思い起させます。

1.出(しゅつ)エジプトのシナイの荒れ野において神がイスラエルの子らへ、マナを与えられた、モーセの時代の物語を想起させます(出エジプト記16章、民数記11章)。 

2.エリヤ(列王上17:8~16)およびエリシャ(列王下4:42~44)の話を思い起こさせます。飢餓のときにエリヤは寡婦(かふ)とその子供が一握りの粉と少量の油で長い間パンをつくって食べることができるようにしました。             預言者エリシャも、召使いに、百人の人々に大麦パン二十個と穀物を食べさせなさいと命じたが、召使いがそれを配ったところ、彼らは食べきれずに残しました。召使いの役目とイエスの弟子たちがパンを配る役目とが似ています。

   また、この奇跡物語は次のようなことを伝えます。

1.この物語は、私たちが持っているもの、私たちが提供しなければならないものが、たとえ五つの小さなパンと二つの乾燥させた魚でしかないとしても、神はそれを用いたもうということを読者に想起させます                 

2.またこの供食は、主の晩餐(ルカ22:19、24:30)を先取りしています。イエスと共なる食事は、イエスの十字架による救いと神の国が到来していることの見えるしるしです。                          

3.群衆への供食は、宣教とは別のことではなく、イエスは人間の肉体的・精神的な必要にお応えになったことを伝えています。

  この五千人への供食は、パンと魚を群衆に配った十二弟子たちにとっても、どうしてこのようなことが起こったのか、理解できない出来事でした。マルコによる福音書6章52節には、弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなったいた」とあります。五千人もの大勢の人々に少量のパンで満腹させるという普通の人間では不可能なことが、イエスによって実現したことは、イエスが神的存在として預言者以上の者であることを示しています。しかし、そのことは弟子たちに分からなかったのです。この出来事の後に、ペトロは、弟子たちを代表して、信仰を言い表しました。「あなたはメシア、生ける神の子です。(マタイ16:16)」この供食の奇跡は生ける神の子であるイエス・キリストのよってなされた恵みの食事でした。

 旧約聖書では主なる神はしばしばイスラエルの牧者(羊飼い)にたとえられていますが、イエスはここで神的な力をもって大群衆を教え、養う大牧者として登場しているのです。「何を食べようかと思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」とイエスは教えられました。その教えの通り、救いを求めて集まった群衆に、必要な糧(食事)を与えられたのです。

 主の祈りで「日毎の糧を与えて下さい」と祈るようにと主は教えます。「糧」とは、単に食物としてのパンだけでなく、わたしたちの生命を維持するために必要なその他の一切のものが意味されています。さらに主イエスが「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:50)と言われたように、内なる生命を養い育てる霊的食物である聖霊を与えてくださるのです。わたしたちの罪を赦し、永遠の命を与えてくださるために十字架の死を遂げ、復活し、神の御座にいて世を支配したもう神の子、救い主イエスを信ずるとき、主イエスがなされた奇跡をも信じることが出来ます。聖霊によって「イエスは主である」との信仰が与えられます。神には何でも出来ないことはないことを改めて、イエスの奇跡を通して教えられます。

  イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えています。                                                      イスラエルの民は、出エジプトの荒れ野の食糧もない不安な苦しい旅で、民が飢えてモーセに不平を述べた時、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる」と語りました(出エジプト記16・4)。こうしてイスラルの民は四十年にわたってこのマナを食べました。神が日ごとに与えた<マナ>は、人々が「これはなんだろう」(マン・フー)と言ったので、その名がつきました。マナは神の恵みとして天から与えられた食物でした。イスラエルの民はパンがなくとも、神が与えてくださったマナによって養われたのです。イスラエルの民は、このような経験を通して活ける主なる神を知ったのです。<人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる>、このことをあなたがたに知らせるために神はあなたがたを苦しめたのだとモーセは民に語りました。<主の口から出るすべての言葉によって>とは、神が民に語る言葉です。この言葉によって、民は守られ、導かれ、養われて生きることができました。神が民に語る言葉は、神と民とを結びつけ、民は神との交わりの中で生きることができたのです。主の口から出るすべての言葉は、まさに民を生かす命の言葉でした。このことをイスラエルの民に知らせるために、神は訓練として民に荒れ野の苦しみを与えられたのです。

  人の生死は神の計らいに中にあるのです。神に信頼し、神の御手にすべてをゆだねることが人のとるべき道です。イエス・キリストこそ父なる神が与えてくださった救い主であり、命の主です。

  私たちが持っているものや、私たちの能力が、たとえ、五つのパンと二匹の魚のように少しだけのものであっても、それを差し出すとき、神はそれを役立て大いなる業のために用いてくださいます。今日という一日を、祈りつつ、思い煩うことなく、どんなときもわたしたちと主イエス様が共にいてくださることを信じ、神の守られ導びかれていることを感謝し、神の愛と人々との愛に生かされながら、神を賛美しつつ、主に従ってまいりましょう。

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