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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)
聖霊降臨節第13主日 2015年8月16日(日) 5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)
交読詩篇 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ヤコブの手紙1章19~27節(新p.422)
説 教 「御言葉の実践」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 8月23日(日)午後5時~5時50分。
聖書 ローマの信徒への手紙14章1-9節
説教 「正しい服従」
賛美歌(21)6 506 24
交読詩編 130
本日の聖書 ヤコブの手紙1章19-27節
19わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 20人の怒りは神の義を実現しないからです。 21だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 23御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 24鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。 26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
本日の説教
ヤコブの手紙は紀元二世紀の初めに書かれました。エスの兄弟ヤコブの名を借りた勧告の文書です。宛先は<離散している十二部族の人たち>と記されていますが、<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。執筆場所は、著者がはっきりしないので不明です。
ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)という主張がなされています。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対しているように見えます。
パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20、ガラテヤ2:16)とあります。
パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:7)
神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださるのです。
ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活を問題にしているのです。
パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。
ヤコブ書の1章19節~27節は、御言を聞くこと、行うことの重大性が語られます。19節~21節は、御言葉を聞くことが信仰生活にとって大切であることを訴えます。
「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」
私たちの魂を救う聖書の御言葉を受け入れなさい、と勧めます。そのためには、<あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去る>ことが必要です。神の御言葉に対して、<聞くのに早く>、自分の主張を<話すのに遅く>、せっかちに判断して<怒るのに遅く>あるべきです。また誤りが自分の側にあることを知ったら、喜んで改めることです。
すべてこのように、神の御言葉に応答することが、<神の義>・すなわち神が人に要求されることを満たしていくことになるのです。人の怒り>は感情に左右されて公正な思考や行動ができなくなります。それゆえに<神の義>の実現を妨げてしまうのです。しかし、神の怒りは、正く、忍耐や赦しに満ちています。
わたしたちの御言葉に対する怒りをひき起こす<汚れや悪>を<素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい>とヤコブは勧めているのです。
22節~25節は、<御言葉を行う人になりなさい>と勧めめます。
<御言葉を聞くだけで終わる者>とは、ただ座って聞くことを良しとし、行動しないことです。こういう態度の人は自らを欺くものです。パウロもローマの信徒への手紙2:13で、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」と語っています。
そのような自己欺の人(誤った謙遜を行う人々)は、鏡でちょっと眺めて去って行き、自分がどんな姿であったかを忘れてしまう人になぞらえることができます(気づいたいた点があれば彼は何かをなすべきであるのに)。このようにうに、御言葉を聞くだけで行わない人を、鏡に映して眺める人にたとえています。御言葉の浅薄な受けとめ方をしている人たちです。<生まれつきの顔>とは、醜い人間の本能を指しています。
これに対してキリスト者は鏡のように、<自由をもたらす完全な律法(すなわち「真理の言葉」または福音)を一心に見つめ、これを守る>人です。その光に自分を照らして彼は自分がどんな者かを忘れず、<行う>のです。パウロは、次のように言っています。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(コリント二、3・18)
<自由をもたらす完全な律法>を<守る人><行う人>は重んじられ、そのような人は<その行いによって幸せにな>るのです。<自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。>
26節~27節は、その使信のまとめであり、社会的・個人的倫理を教えています。
それでは救われたキリスト者は何を行うべきなのでしょうか?
ヤコブはさしあたり二つの範例を挙げます。第一は「みなしごや、やもめが困っているときに世話を」することです。初代教会がずっと配慮してきた切実な課題でした(使徒言行録6章)。
第二は<世の汚れに染まらないように自分を守ること>です。教会がその時代の放蕩なギリシャ・ローマ世界に進入する際に特に大事な教訓でした。
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自分をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(ガラテヤ1・4)
ヤコブは、このように、社会的・個人的倫理として隣人愛と自己聖化という信仰者の徳を勧めているのです。預言者イザヤも同じような勧めをしています。
「悪い行いをやめ、善を行うことを学び、搾取する者を凝らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ書1・16~17)
キリスト・イエスに結ばれている者は、信仰によって義とされた自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに(自己聖化)、愛によって互いに仕えること(隣人愛)が求められているのです。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤ5・13~14)
ヤコブ書は、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5・6)という教えを説き、わたしたちがおろそかにしがちな信仰の実践を強調しているのです。
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