神さまやが人間や他の生物を創られたっていうよね。でも、人間は神さまに近い存在として作られたのに、植物なんて、最初から神さまに遠い存在として創られてるなんて、なんだか平等じゃなくって納得できないんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『説法自由自在③ 真理の発見』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
やはり発現形態に差を認めている部分はあります。たしかに人間と植物とを比べてみて、植物はずいぶん不自由しているのではないかと同情する向きもあるかもしれませんし、出発点が違うではないかという考えもあるでしょう。
しかし、植物のほうがいいかもしれない面もなきにしもあらずですね。じっとしていれば下から水がシューシュー上がってきて、光合成をしていられるのですから。私は光合成の気分はわからないけれども、日光浴をすると、ご飯が胃のなかにたくさん出てくるような感じなのかなと思ったりします。「うれしいな、陽があたってあったかくなって、おいしくなって、甘くなってきた。」というような感じがして、花をパッと咲かせたら、ミツバチなどがいっぱい飛んできて、「ああ、うれしい、よくモテるよ。」というふうに、けっこう幸福かもしれないですね。(中略)
一方、植物のほうから人間を見たら、「何か試験でしぼられて、えらく厳しいし、あんな地獄みたいな生活をやっている。(中略)私たちはただ光合成をして、水をシューシュー吸っていれば、ミツバチに人気が出ていいのに。」というふうに思っているかもしれません。
ですから、このへんはなんともいえません。幸福感をどこではかるかです。(中略)シンプルだから程度が低いとはいいかねる面があります。
私たちはどんなに頑張っても、スミレの花のようなきれいなものはつくれません。彼らは咲き誇っているのかもしれませんよ。女性であれば超美人かもしれません。人間の女性と比べても、これも基準がないから比べられませんが、私はスミレの花のほうがきれいではないかと思うことがよくあります。彼らから見れば、あんなひどいかっこうをして、ひどい顔をして、よく生きていられるものだと思っているかもしれないですね。(中略)
ですから、いろいろな魂の顕現はあるけれども、その上下というものは必ずしもわかるものではないのです。ただ、自由性・創造性において、人間がより神に近いところにあるということはいえるでしょう。人間が動物や植物よりも上ということはいえるけれども、しかし、それぞれの幸福感という意味においては、必ずしもわかりません。ひじょうにインテリといわれても、ノイローゼを起こして死んでしまうような人もいます。鉄道自殺した植物というのは聞いたことがありません。猫はたまに車にひかれることもありますが、そういう意味では、猫は植物よりも不幸かもしれないのです。それはわからないわけです。それぞれの段階で、やはり私たちにはわからないような幸福感があるかもしれないのです。それは認めなければいけないと思います。
(134~136ページ)
自由性・創造性において、人間がより神に近い存在であるということは言えるだろう。
けれども、動植物の魂はいろいろな形態で現われ、特質が違っているのだから、その幸福感の上下は一慨には言えない。
植物には、人間にはわからないような幸福感があるかもしれない──。
なるほど、なるほど。
これは仏の視点を教えてくださっていたのではないかと改めて私は感じているのです。
|
『説法自由自在③ 真理の発見』
大川隆法著 |
(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!)