ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



仏陀(ぶっだ)って、悟りを開いた方のことだと思うんだけど、悟りを開いたら、もう生まれかわないっていうのが、お釈迦さま(釈尊)の教えだったんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 ただ、もう一つ述べておかなければいけないことがあります。「悟りを開いた場合に、輪廻的な生存を断ち切って、輪廻の枠から外れて、もはや生まれ変わらないようになることができる」というようなことを、なぜ釈迦が言ったと伝えられているのかという理由についてです。
 これはいったいどういうことでしょうか。確かに、人間はあの世でも魂としての形状を持って生活をしており、この世との間を何百年かおきに転生輪廻しています。しかし、もう少し上の世界、すなわち菩薩界から上ぐらいの世界に入っていくと、人間的な魂の姿をとっていないことが多いのです。あの世でも、六次元光明界ぐらいまでならば、人間的な姿をとって生存しており、そのまま生まれ変わりを経験しているのですが、菩薩界から上になってくると、そうした人間的な形をとることがだんだん少なくなっていくのです。如来界ぐらいになってくると、通常の場合は人間の姿をとっていません。彼らも、生きているときの人間のようなイメージを持っていることはありますが、通常は意識体としてのみ存在しているのです。
 このように、確かに意識体としてのみ存在するようになってくると、もはや人間的な生まれ変わりをする魂ではなくなってきます。大きな意識の塊になるのです。それぞれに個性はあります。緑色だとか、青色だとか、黄色だとか、赤色だとか、いろいろな色彩を持ってはいますが、そうした意識体となって作用するだけの存在になるのです。
 こうなると、約束ごととして何度も何度も生まれ変わらなくてはいけないという、通常の人間の魂としての生まれ変わり、すなわち、カルマの刈り取り的な修行としての魂の生まれ変わりはないわけです。意識体としてあの世に存在しているわけですから、彼らにとって、魂の修行なるものは、ある意味ではなくなっているのです。
 しかし、地上の人びとを救済するために、あえて人間の肉体に宿って出てくることはあります。それはあくまでも主体的な活動であって、「何百年経ったら生まれ変わらなくてはいけない」というような、業の刈り取りのために洗濯機のなかで回されているような魂修行ではないわけです。
 このような難しい理論を釈迦は説いたわけですが、弟子たちの理解が及ばず、そこまではわかりませんでした。「無我であるというから、死んだらなくなるのだろう」という程度のことしかわからない弟子が数多くいたわけです。これが混乱のもとになっていきます。
(152~154ページ)

菩薩界から上の世界では人間的な魂の姿をとっていないことが多く、如来界では、通常はそれぞれに個性はあっても、意識体としてのみ存在している。

そうなると、もはやカルマの刈り取り的な修行としての魂の生まれ変わりはない。

しかし、主体的な活動として地上の人びとを救済するために、あえて人間の肉体に宿って出てくることはある──。

つまり、七次元存在である「菩薩」、そして八次元存在である「如来」を超えて、九次元存在である「大如来」(仏)には、すでに自分のカルマ(業)の刈り取りという意味での生まれ変わりはない。

だけれども、地上の人びとを救済するために、仏はあえて生まれ変わることがある。再誕することがある。

そして、この現代日本において、その極めてまれな出来事が、いままさに起きていることを、大川隆法先生は明らかにしておられます。

「仏陀再誕」というこの重大な真実を、もっともっと多くの人々に告げ知らせなくてはならないと、心から私は思っているのです。

 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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