ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「無我」って、よく聞くんだけど、何のことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたが、あなた自身だと思っているものは、実は皮袋にしかすぎないのです。皮袋なのです。それをあなたは、あなただと思っているのです。
 永遠に尽きることのない、永久の、悠久の大河である神仏のエネルギー、そのなかに生きているものがあなた自身です。その悠久の大河に、羊の皮袋でもって水をすくい、それをくるんだものを、あなたは自己だと思っている。この皮袋のなかに入った水たまりが自分だと思っている。しかし、それはほんとうのあなたではない。それは皮袋の感覚にしかすぎない。
 眼・耳・鼻・舌・身・意というものを否定した、真実の自己というものを見つめなさい。まず、その眼の感覚によって見えるもの、それがほんとうの姿であるかどうかを、もう一度、深く深く考えてみなさい。
 たとえば、夏の虫で蛾(が)というものがあります。この蛾は、光を見れば飛んでいきます。それが熱を持っていない灯(あかり)なのか、それとも自分の身を焦がすような炎なのか、その区別さえつきません。彼らは、灯を見ては飛んでいきます。
 それが小さな生き物だから、そのように見ることができますが、人間もまた、そのようなものだということを知らなくてはならないのです。あなた方も実は、その灯を求めて飛んでいく蛾のような、愚かな生き方をしているのです。
 なぜそうなるのか──。そう、無明(むみょう)だからです。自分自身が灯のない状態だからです。そして、灯と思うものを求めて飛んでいくのだけれども、それが実は、真実の灯ではなく、身を焦がす蝋燭(ろうそく)の炎であることがよくあるのです。
 蛾においては、それは眼の錯覚ですが、人間においても同じことがあります。眼を通しての錯覚、鼻を通しての錯覚、耳を通しての錯覚もあります。あるいは舌を通しての錯覚、指先、手を通してなどの肉体の感覚、こうしたものの錯覚が、ほんとうはあるのです。それによって、善悪美醜というものを感じとっているのです。しかし、それらの感覚は、ほんとうは魂から見た善悪美醜とは違ったものに価値を感じていることがあることを、あなた方は知らなければなりません。
 肉体を持ってこの世の生活をしていても、そのなかに霊的なる意味合いのあることも、もちろん数多くあります。それを見抜いていくことこそ、ほんとうの智慧ですが、そうではなく、この世的な価値観に付属した、肉体感覚的な自己像や他人像に狂わされると、蛾のように身を滅ぼしていくことになるということを、繰り返し繰り返し、私はお話ししているのです。
(31~33ページ)

だからこそ、この肉体感覚から来る、にせものの我(われ)を否定しなさい、と。

これが、2500年前にインドの地で、釈尊(お釈迦様)が説かれた、「無我」の思想だった──.

これを大川隆法先生は、現代日本の言葉で、さまざまな角度から分かりやすく説いておられるわけです。

今日は、仏教思想のなかでも最重要の言葉のひとつ、「無我」のお教えをご紹介してみました!

 

『沈黙の仏陀』

 大川隆法著

 

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