宗教って、いろいろ戒律があったりするんでしょ? それって重いなあ。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
仏教には「戒」というものがあります。これは、交通ルールのようなものとは違って、各人が自分で「これを守ろう」と設定するものです。
たとえば、「今年は毎月一冊、仏法真理の本を読もう」という誓いを立てれば、それはその人にとっての戒になります。
そして、毎月読むことにしていたのに、「今月は読みそこねた」ということになれば、それは破戒、すなわち戒を破ったことになります。ただ、それに対する罰則は何もありません。戒には罰則はないのです。
しかし、戒めを破ったことに対して、自分自身が深い慙愧(ざんき)の念、後悔の念を味わい、「こんなことではいけない。もっともっと自分を強くしなければいけない。自分を鍛えなくてはならない」と思うわけです。それによって、修行が進んでいくのです。
戒と聞くと、普通は「不自由なもの」と考えがちですが、ほんとうはそうではなく、各人が自分の修行のレベルに合わせてつくっていくものなのです。(中略)
そのように、自分を向上させるために、自主的に立てて守っていこうとするものが戒なのです。これに対して、罰則のあるルールとして、「律」というものがあります。これは、出家教団における共同生活のルールです。(中略)
共同生活のなかで、お互いに修行の邪魔をしないようにするために、「このルールを守る範囲内においては、お互いに相手の権益を侵害することなく、自由を満喫できる」という共通項を定め、それを律と呼んだのです。(中略)
律は出家者にはありましたが、在家にはありませんでした。(中略)
戒の内容は、仏教的精神に則った方向のものであれば何でもよく、各人が自分で考えていました。現代的に言えば、「毎日、運動をしよう」「食べすぎないようにしよう」「寝すぎないようにしよう」というものでも戒になります。
そのように、戒は自由なものであり、罰則は特にありませんでした。これが仏教教団のあり方です。
自由には、放縦(ほうじゅう)、すなわち、「ほしいままに何でもできる」という意味での自由ももちろんありますが、もう一つ、「自分で自分をコントロールする。自分で目的性を持ち、方向性を決める。自分で一定の範囲を定め、そのなかで生活していこうと決める」という意味での、意志を含んだ自由もあります。
この意志を含んだ自由は、責任を伴う自由であり、非常に責任感あふれる自由です。このような、責任感に裏打ちされた自由論が仏教の本質なのです。
「お互いに迷惑をかけずに、思う存分に修行をして、心の法則をマスターしよう。自分自身の心の奥にある、宇宙につながっているものを手に入れよう」というスタイルであったわけです。
(243~247ページ)
仏教の「戒」とは、各人が修行レベルに合わせて自分で設定するものであって、破ったとしても罰則はなく、深い後悔の念を味わうことで修行が進んでいくというものである。
罰則のあるルールとして「律」があるが、これは出家教団における共同生活のルールであって、在家にはなかった。
自由には、放縦という意味での自由以外に、意志を含んだ自由もあり、これは責任を伴う自由であるが、そのような責任感に裏打ちされた自由論が仏教の本質なのである──。
出家せず、通常の社会生活を送っている一般の信者のことを、「在家」と言います。
在家には、自主的で自由な修行目標としての「戒」があっただけだというのが、2500年前の仏教教団のあり方だった、と教えていただいたわけです。
そして、このあり方は、現代日本の幸福の科学においても引き継がれています。
幸福の科学の信者は、自らの意志で選びとる自由の行使として、心の修行を進め、悟りを高めるための誓い、つまり「戒」をたてるように勧められている、ということだと思います。
「責任感に裏打ちされた自由論」って、2500年前はもちろんのこと、現代日本であっても、なんて先進的な響きなんだろうと私は感じ入っているのです。
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『大悟の法』
大川隆法著 |
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