野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

Motocross Actionネット誌の ”Jeff Emig”

2022-09-14 06:24:17 | モータースポーツ
12日のMotocross Action誌に「MXA INTERVIEW: JEFF EMIG ON HOW EXTRACURRICULAR ACTIVITIES TOOK OVER HIS LIFE」という、現在もアメリカモトクロス界の第一人者として活躍中のJEFF EMIGのインタビュー記事が投稿されているが、面白い。
そのMotocross ActionのFBに12日、投稿されていた写真がこれ。 ·
@emig47 and his @racekawasaki #kawasaki KX250 #twostroke at @supercrosslive
 「Motocross Action FB」
「ミニバイクがモトクロスキャリア出発点。1986年、Ponca City の80ccストッククラスで優勝した。このクラスで優勝することは、二輪メーカー第一の目標だったので大変喜んでくれた。なぜなら、市販のバイクで優勝したから。私が勝つとはだれも思わなかったので、優勝してコースを降りたとき、父はとても喜んで泣いていた。これがモトクロスキャリア出発点となった」 
「1984年にカワサキのチーム・グリーンと契約し、それは1990年にファクトリーカワサキと契約するまで続いた」
「ファクトリーカワサキに乗りたかったし、 Jeff Ward のチームメイトになりたかった。13歳からカワサキ・キッドで、それが当時の夢で、1990年にチームグリーンからファクトリーチームに移籍して125スーパークロスに参戦した。当時のファクトリーカワサキの監督はRoy Turner 、Jeff Matiasevich, Johnny O’Mara そしてJeff Wardが同じチームにいた。ファクトリーチームのメンバーになれるなんて、夢のようだった。とてもクールだった」
「1991年にヤマハに移籍し、その後の4年間、ヤマハファクトリーと契約していた。カワサキの監督Roy Turner が私に大きな関心を示してくれた。カワサキと再び契約したとき、それは私のキャリアの中で最も高額なものだった。カワサキと契約してRoy も大変喜んでくれた」
「1997年にスーパークロスチャンピオンになった。1996年の中盤から1997年の夏の終わりまで、全てのレースに優勝した。1997年のスーパークロスとナショナルチャンピオンを獲得し、アメリカのモトクロススポーツの頂点にいた。6回もモトクロス・オブ・ネイションズの代表に選ばれ、King of Bercy にもなった。反省点としては、1998年は前年に達成したことを惰性で使っていたことだ。スーパークロスは本当に苦しくて、集中力が続かなかった。98年の途中で、練習中に右手親指を痛めたが、その日は両ヒートで優勝した。そして1週間後、整形外科医から「親指が折れている。手術しないともっとひどくなる」と言われた。この年、目のレーシック手術と親指の手術を受けた」
「1999年の夏、Lake Havasu でトラブルに巻き込まれた。ポケットにマリファナがあるのを警察に見つかり、逮捕された。今は合法だが、当時は違法だった。カワサキのBruce Stjernstrom から電話があり、日本人のボスから全権を任された彼は解雇を通達した」
「カワサキから解雇されて1年も経たないうちに、カワサキのBruce Stjernstrom は私をカワサキのサポートチームとして再び契約してくれた。彼は、私のLake Havasu での行動に、公的にも個人的にも、そして雑誌のインタビューでも、全責任を負ったことを誇りに思っていたのだと思う。私はカワサキに責任を負わせることはしなかった。私は、自分自身と会社の代表としてあるべき姿を示すという契約にサインしていたのに、それを守らなかった。カワサキは私を解雇する権利があった。そして1年後、私を解雇したカワサキが再び”カワサキに戻ってこいよ”と言ってくれた」等々、長文なので前半のみを訳してみたが、中盤以降もかなり面白い興味ある話を記者に話ししている。

そして、Fox Racing/Shift MXとの契約は25年目を迎え、またHusqvarna社とも契約している。最期に「I still consider myself a racer. That is how I am going to identify myself for the rest of my life. It has been a full life, and hopefully I am going to make my life expectancy well past the 80s, so I can see my kids have kids and have more life experiences, but I am telling you, if it all ended today, I have been a lucky man.」と結んでいる。「たのしいかな、我がモトクロス人生」というところか。

で、同じ日のMotocross Actionネット誌が、”これ欲しいですか?”と投げかけた車が2ストロークエンジンのKX250。
@possum_valley_racing Project #kawasaki KX250 #twostroke . Would you buy a new KX #2stroke if they made one?
 「Motocross Action  FB
米国の多くのオフロード専門誌が最新の2ストロークエンジンのモトクロスマシンに強い興味を持っていることは、その特集記事を多く組んでいるので知っているが、びっくりしたのは、この写真に対しての多くの読者コメント欄で、それらは現在の米国市場の声を反映していると考えると非常に参考になった。多くの米国のオフロードユーザーは2ストロークエンジン付きのモトクロスマシンを強く要望していることが改めて分かった。

昨年(2021)の11月、MotocrossAction誌が”PRO CIRCUIT”オーナー MITCH PAYTONさんにインタビューした記事「HOW MITCH PAYTON SAVED THE PRO CIRCUIT EMPIRE IN THE PANDEMIC」に、世界最大のアメリカオフロード市場の現状を解説している。( MITCH PAYTONさんは先週、名阪でぶっちぎりで圧勝した下田選手の属するチームオーナー)。その概略は例えば、
「4ストロークマシン所有者と話すと、彼らが言うには「もう余裕がないんだ。もう大金を使うのはこりごりだ」と言っている。新品の4ストマシンは諸費用を考えると大変金がかかる。普通の人と話すと、2ストロークのバイクの所有者は、古い2ストロークのバイクを買って、それを修理して遊べる(だからあまり金はかからない)」
「日本のメーカーが2ストロークから離れたのはなぜですか?の質問については、1999年、CARB(カリフォルニア州大気資源局)が2ストロークエンジンの禁止について提案してきたので、いくつかの製造業者を集めて話をしようと試みた。その話にカワサキは賛成しホンダは拒絶した。結果的にカリフォルニアのCARBは2ストロークエンジンを禁止しなかった。それでも、日本のメーカーは2ストマシンを作らなくなった。4ストロークを開発しようとする実際の動機は偽ものだった。当時のAMAが考える4ストロークエンジンとはXR650やXR400のような空冷ビッグピストンのダサいエンジンのイメージしかなく、まさか、4ストロークエンジンが高回転、ショートストローク、ビッグボア、軽量クランクシャフト、電子制御式イグニッション等を装備するとは想像すらできなかった(時代遅れの空冷4スト250㏄のエンジンには2スト125㏄が丁度いいと思った?)。AMAは4ストの可能性を理解する知識がなかったと思う。KTMは筋金入りのバイク設計者だから、パワフルな4ストロークと軽量な2ストロークは必ず両立すると考えてきたので、だからこそ、今のKTMの成功がある」

先週名阪の最後のレースだった、2ストロークマシンのレースをパソコン観戦したが、低迷中の全日本選手権参加数とは違い、ビックリするほどのエントリー台数があった。その多くは日本で唯一、2ストロークマシンを生産販売しているヤマハの車が殆どであったが、日本のモトクロス愛好者にも2ストローク願望者が多く存在しているんだなと改めて感じた。一方、2ストロークと4ストロークマシンの最新マシンを毎年、世界中に開発・販売しているのは現在、欧州のKTMを中心とする企業だけとなっているところを見ると、世界のオフロード市場は欧州企業が牽引していると思われるほどだ。市場要求を優先する欧州企業、KTM社はホンダ、ヤマハに次ぐ世界第3位の二輪メーカーになると宣言しているので期待している。
コメント
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