しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙問題

2018年09月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

民間人として満州に行ったおば(父の妹)は、「(日本人は)偉い思うとったから、戦争に敗けたらその反動が全部でた」と話していた。
軍人として中国に行った父は「悪いことをしただけでなく、良いこともしとる。例えば道路を造ったが、今でも使っているはずじゃ」
と”悪いこと”をした思いを持っていた。

しかし
例えば戦後に、満州開拓団は被害者という面からでしか語られていない。


戦前・戦中を被害意識でしか見ない今の史書は、他国から浮いていた戦前・戦中と共通した面があるように思う。



日中十五年戦争史 大杉一雄著 中公新書 より転記する。

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満蒙問題
日本が日露戦争の勝利におごって、韓国に対して高圧的な態度で臨み、ついに植民地とし、帝国主義国家への道を歩むに至ったのは残念な事実である。
たとえ朝鮮半島が日本の対外関係上、防波堤であるとともに橋頭堡とならざるを得なかったとしても、友好的な同盟国として韓国と共存するという選択はあり得なかったのであろうか。

日清・日露の戦争の犠牲によって獲得し、かつその保有が国際的にも認められている、南満州の権益を中国に返還するなどということは到底考えられなかった。
しかも、満州に関する限り日露戦争の結果は、それを支那のためにロシアから取り戻してやったのだという意識があった。
「満蒙は日本の生命線」という言葉は、必ずしも軍部や日本居留民だけのスローガンではなかった。

このような観念が最も露骨に現れたのが例の二十一ヶ条の要求であり、とくにパリ平和会議において中国の要望を無視して、ドイツの山東省権益の返還を認めなかったことは、「5・4運動」(1919)に代表される中国国民の激しい反発となり、中国ナショナリズムの憎悪の的となってしまった。

「満蒙生命線」論は当時の日本国民の共鳴と支持を受けていたが、中国にとっても「支那人は満州を以って国防の第一線と考えるに居れり」(国連リットン報告書)。
それにもかかわらず日本側の議論には中国への配慮はまったく払われていなかったといってよい。

だからこそ柳条湖で「暴戻なる」中国人により、満鉄線が爆破され(事実は関東軍)、それにより「隠忍自重していた」関東軍も、ついに出動したと報じられとマスコミも国民も、これを一斉に支持し同調するようになった。
しかも満州国を「独立」させ、事実上の植民地としたこと、すなわち満蒙を掠め取ったこと及びそれに対して国際的な非難をこうむったことに、それほどの罪の意識をもたなかった。

以上の事は、平和憲法のもとに50年生活してきた戦後派の人々には、理解できない部分があるかもしれないが、否定できない歴史的事実である。
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