しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

軍隊が置かれた城

2018年09月01日 | 江戸~明治
明治維新でお城は政府・兵部省の所有となり、明治5年に陸・海軍省発足で陸軍省が所有となり、翌明治6年に軍の使用予定がない城は廃城令が出た。
廃城令が出た城は財務省が管理し、学校・役所等使用で売却することになった。

中国四国では、津山城・福山城・三原城・萩城・今治城・高知城などが廃城となった。


「日本の城1000城」西東社 2012年発行より転記。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
軍隊が置かれた城

明治4年(1871)4月、2鎮台が置かれた。同年8月東京・大阪・鎮西・東北と4に増える。
鎮台は国内治安向けの歩兵主力の軍隊で、本営4ケ所、分営8ヶ所が、旧城内に置かれた。この時、仙台城・大坂城・小倉城にそれぞれ鎮台が置かれた。
そして弘前城・佐倉城・上田城・名古屋城・小浜城・高松城・広島城・鹿児島城に分営が設置された。

明治5年、兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が設置される。城郭の管理は兵部省から陸軍に変わった。

明治6年に鎮台が4から6に増えた。鎮台を含む営所はこの時14ヶ所、将来は41に増やす計画であった。
そしてのために必要になる旧城郭以外の城はすべて廃城となっている。

これにより存城とされたのが、
二条城・大坂城・津城・名古屋城・豊橋城・静岡城・山梨城・小田原城・江戸城・彦根城・高崎城・宇都宮城・若松城・仙台城・盛岡城・山形城・秋田城・福井城・金沢城・新発田城・陸前高田城・鳥取城・松江城・姫路城・岡山城・広島城・山口城・和歌山城・徳島城・丸亀城・高松城・松山城・宇和島城・福岡城・小倉城・熊本城・飫肥城・鹿児島城・厳原城・首里城であった。

しかし山口城のように存城がいったん決まったものの、その後廃城令が出た城もある。
存城が決まっととはいえ、城は軍隊を駐在させるための場所であった。
城内の建物は必要がないとされた建物は壊された。
残された建物の多くも使い勝手がよいように改修されてしまったものが多かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尼港事件--「平和をたずねて」より

2018年09月01日 | 大正
尼港事件(1920)から98年経った新聞記事を記録しておく。


「平和をたずねて」毎日新聞 2018年8月21日より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町や村の戦没者を一気に増やし、男性の人口を減らした。
尼港事件では歩兵第2連隊(水戸)第3大隊がそうだった。
連隊の犠牲者307人中281人が茨木県の出身者で占められた。
在郷軍人会が水戸市内に建立した「尼港殉職者記念碑」に、次の記述がみられる。

《この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍で、情勢の悪化を憂い中央では増援の派遣を図ったが、結局積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。(略)》

戦死した兵士は、異例の2階級特進となったが、地元紙「茨木民友社」の長久保社長は軍部の責任を厳しく問うた。
1920年6月水戸市常盤公園で招魂祭が営まれたとき、田中義一陸相や上原参謀総長らが列席したことにふれ、長久保社長はこう論じた。
『これを以って見ても其の責任上遺族を慰撫する事に於いて如何に狼狽したかを窺知するするに足りるであろう』

続けて「勝田市史 近代・現代編1」は次のように書き留めている。
「領土さえ拡がれば国は繁栄するものと心得ている低能児」の軍閥と
この軍閥と手を結んだ原敬内閣とを、舌鋒鋭く批判する長久保こそ、無名の師にむなしく異郷の地に斃れた兵士たちの真意をあらわした言論人であった。

尼港事件の追悼碑は、全国に少なくとも6ヶ所ある。殉難者は軍人の水戸に対して、民間人は天草(熊本県)が多かった。
≪わが天草人にして、殉難せる者百十名の多きに達す。(略)悉く自力更生のため大陸に進出せる勇者なりき。然るに業中にして俄然凶手に斃る。人生の恨事、何者か之に過ぎん。嗚呼、悲しいかな≫
続けて、
≪然れども殉難者の一死は、あえて徒死にはあらざりき≫として、こう説明する。
≪国家に対して貢献せる所、決して少なからず。
即ち、国防上最も必要なる北樺太の利権は、ひっきょう殉難者の賜たるは勿論、帝国今日の大陸政策もまた、つとに諸君の雄図に胚胎(はいたい)せり≫
時代を映す碑文とはいえ、北サハリンの「保障占領」に「貢献」したといわれても、民間人の死者たちは当惑するのではなかろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする