しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

尼港事件--「平和をたずねて」より

2018年09月01日 | 大正
尼港事件(1920)から98年経った新聞記事を記録しておく。


「平和をたずねて」毎日新聞 2018年8月21日より転記

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日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町や村の戦没者を一気に増やし、男性の人口を減らした。
尼港事件では歩兵第2連隊(水戸)第3大隊がそうだった。
連隊の犠牲者307人中281人が茨木県の出身者で占められた。
在郷軍人会が水戸市内に建立した「尼港殉職者記念碑」に、次の記述がみられる。

《この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍で、情勢の悪化を憂い中央では増援の派遣を図ったが、結局積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。(略)》

戦死した兵士は、異例の2階級特進となったが、地元紙「茨木民友社」の長久保社長は軍部の責任を厳しく問うた。
1920年6月水戸市常盤公園で招魂祭が営まれたとき、田中義一陸相や上原参謀総長らが列席したことにふれ、長久保社長はこう論じた。
『これを以って見ても其の責任上遺族を慰撫する事に於いて如何に狼狽したかを窺知するするに足りるであろう』

続けて「勝田市史 近代・現代編1」は次のように書き留めている。
「領土さえ拡がれば国は繁栄するものと心得ている低能児」の軍閥と
この軍閥と手を結んだ原敬内閣とを、舌鋒鋭く批判する長久保こそ、無名の師にむなしく異郷の地に斃れた兵士たちの真意をあらわした言論人であった。

尼港事件の追悼碑は、全国に少なくとも6ヶ所ある。殉難者は軍人の水戸に対して、民間人は天草(熊本県)が多かった。
≪わが天草人にして、殉難せる者百十名の多きに達す。(略)悉く自力更生のため大陸に進出せる勇者なりき。然るに業中にして俄然凶手に斃る。人生の恨事、何者か之に過ぎん。嗚呼、悲しいかな≫
続けて、
≪然れども殉難者の一死は、あえて徒死にはあらざりき≫として、こう説明する。
≪国家に対して貢献せる所、決して少なからず。
即ち、国防上最も必要なる北樺太の利権は、ひっきょう殉難者の賜たるは勿論、帝国今日の大陸政策もまた、つとに諸君の雄図に胚胎(はいたい)せり≫
時代を映す碑文とはいえ、北サハリンの「保障占領」に「貢献」したといわれても、民間人の死者たちは当惑するのではなかろうか。


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