しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学⑨青年学校

2023年05月27日 | 学制150年

昭和10年から昭和24年まで、日本の教育制度は幾度と改編された。
昭和10年頃、城見村には「城見尋常高等小学校」を卒業後、進学しないで就労の人たちは「城見青年訓練所」(いわゆる青訓)に通っていた。
この青訓が昭和10年制度化され「城見青年訓練所」となった。昭和14年義務化された。
昭和17年政府は「小規模校を統合」して「独立校」への指示を出した。
なお学校規模は中隊(約240人)訓練が出来ることが目途とされた。
金浦青年学校は国民学校(高等科の意味か?)の校舎と共に昭和17年1月20日落成した。
城見青年学校は昭和10年に改称、昭和17年から独立校である組合立金浦青年学校に統合して消滅。
金浦青年学校は学制改革により消滅して、新制の「金浦中学校」に吸収された。

参考・岡山県史・笠岡市史

 


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「新修倉敷市史6」

青年学校

青年学校は昭和10年の「青年学校令」によってうまれた。
昭和16年には児島・倉敷・玉島の繊維工場に女子青年学校が開設されている。
三菱重工水島航空機製作所も昭和17年、工場建設に先がけて青年学校や寮の建設が行われ、4月開校している。

昭和14年青年学校令は改正され、軍部の強い圧力のもとで所定の学校に在学するものを除いて、年齢満12歳を超えて満19歳までの男子は、
その保護者が就学させる義務をもつことになった。
義務制実施に伴って昭和16年度からつぎつぎと青年学校が開設されたが、翌年からは教員不足の問題もあり、
全国的に統合が進められた。
戦時教育下での青年学校は軍国日本のために、甲種合格が目標とされた。

軍事訓練は陸軍の強い指導で重視された。

 

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「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行
青年学校

青年学校は独立校が少なくて、町村の組合立が多く、
校長は小学校の兼務が普通であった。
昭和16年以後は
「各週概ね2日とし昼間、
自三時至六時三時間を標準とす」
と定められた。
義務制になるとともに就学、出席の督促がきびしくなり、
理由なくして二週間以上欠席した場合は市長が督促し、
さらに出席しないときは県知事、さらには憲兵隊へと報告されたといわれる。
義務制実施に伴って、昭和16年度から各地方につぎつぎと青年学校が設立された。
学校数の増加に伴い、最も大きな問題は教員の不足ということであった。

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「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行

小学校と兵役をつなぐ
青年学校のはたした役割

昭和10年4月1日、「男女青年に対し、其の心身を鍛錬し徳性を滋養すると共に職業及実際生活に須要なる知識技能を授け以て国民たるの資質を向上せしむる」ことを目的とした青年学校令が公布され、同年10月10日から青年学校が開校した。
この青年学校は、すでに存在していた実業補習学校と青年訓練所を一つの教育機関に統合したものである。

実業補習学校は
明治26年制度化されたもので、小学校卒の勤労青少年を対象に、修身・読書・習字・算術など小学校教育の補習と併せて、職業上の簡易な知識・技術を授けることを目的とし、その数は昭和9年には15.315校に達していた。

青年訓練所は、
大正15年(1926)4月20日に公布された「青年訓練所令」によって設立された、陸軍省と文部省の管理下に置かれた軍事教育機関だった。
対象は16才から20才までの勤労青少年(男子)で、実業補習学校終了から兵役までの空白期間を埋める形になっていた。
同年7月、公私合わせて15.523校が一斉に開設された。
 義務教育終了後の全青少年を直接管理し、「帝国臣民」としての公民教育を施そうとしたのである。
ところが、小学校の校門には、高等小学校、実業補習学校、青年訓練所の三つの看板がかかげられるのが通例となり、教育制度体系に混乱を引き起こすもととなった。
このため、青年訓練所発足後1年足らずして、実業補習学校との合併論が浮上し、昭和5.6年頃になると、青年期教育全体の再編成構想の一環として双方を合併し、新たに青年学校を設置する案が文部省で策定される。
文部省原案による青年学校は、社会的教育機関という性格が強かったが、これに軍部が反発し、逆に「合併して青年訓練所となす」案を強硬に主張した。論議は平行し10年になってようやく制度下にこぎつけた。

青年学校の課程
普通科と本科からなり、普通科が2年、本科が男子5年、女子3年で、地域の状況により男子4年女子2年とすることもできた。
普通科は尋常卒、本科は高等小学校卒業者だった。

青年学校の義務教育課
昭和12年7月、日中戦争の勃発とともに、日本は本格的な戦時体制へと突入していった。
この情勢のなかで4月、「青年学校令」が改正され、男子青年学校は義務制度化された。
高度国防国家体制の確立が叫ばれるなかで、国体観念の強化、兵士予備軍の育成、軍需生産体制への適応を、いっそうおしすすめるためだった。

これによって、満12歳以上19歳未満の上級進学者以外の男子はすべて青年学校へ就学しなければならなくなった。
また義務制度にともない、工場・事業所など企業内の私立青年学校が奨励された。
義務化実施には私立青年学校の普及が必要だった。
しかし義務制化は、同年から一学年ずつ実施していき、20年に完了するはずだったが、戦争の激化と敗戦によって、完全な実施をみることはなかった。

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「笠岡市史第四巻」 笠岡市 平成14年発行

敗戦

学校では神国日本はいかなる時にも戦争に負けることはないと日々教えられ、
将来の夢は立派な軍人になることを教育されてきた子どもにとっては不安よりも驚きの方が大きかった。
大人にとってはその逆で、これからの生活はどうなるのか、占領軍のさまざまな情報がその気持ちをよけいに煽り立てた。

GHQの指導により単線型の学校体系、男女共学の一大変革が大きな柱となった。
荒らしい学制はまず、高等科の廃止、新制中学校建築や移行であった。

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