しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

新制大学発足

2024年02月06日 | 学制150年

大日本帝国の崩壊で、用なしとなった師団や聯隊の広大な跡地の多くは
新制大学の校地となった。

 

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(岡山大学・2018.11.11)

 

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

岡山総合大
中国総合大学誘致運動

昭和22年12月中旬、第1回中央陳情の際、文部省はCIEの示唆のもとに新学制による国立総合大学を全国に十一校設立する意向をもっていることが明らかにされた。
それによれば、11校のうち、7校は従来の帝国大学をそのまま移行し、
ほかに金沢、熊本と中国、四国に各一枚程度認める模様で、中国では広島、岡山、松江が有力視されているということであった。
この結果、従来の岡山総合大学設立運動は、中国総合大学誘致運動へと発展し、六高誘致のときと同様、広島県としのぎをけずることとなった。

23年1月、岡山総合大学設立期成会は、中国総合大学設立期成会と改称し、
本格的な誘致運動が展開された。
これには六高、岡山医大も積極的に参加した。
中国総合大学誘致運動は、岡山と広島との争奪戦となったが、
3月に文部省は各方面から猛反対をうけていた大学地方委譲案と十一国立大学案を否定した。


岡山大学の設立と認可 

岡山大学が正式に認められたのは、昭和24年5月31日である。
岡山大学の開学24年5月に学生募集が行われ、同年7月28日第一回入学宣誓式が挙行された。 
入学者は858人で、授業は9月15日に開始され、10月22日に設立期成会による開学式が行われた。
初代の学長には林道倫岡山医大学長が就任した。

 

岡山県立短期大学
岡山栄養科学園

岡山県立短期大学の前身である岡山栄養科学園は、昭和21年上道郡高島村(現岡山市)に結核予防会の施設をかりて、
国民栄養協会岡山県支部の経営で発足した。
戦後間もないころで、国民の栄養状態もきわめて悪く、国民の体位向上をめざして栄養知識の普及をはかるには、栄養士の養成が必要であるとの立場から、
衛生部が岡山医科大学の指導のもとに設立開校をすすめたものである。
初代学園長は岡山医大の清水多栄教授であった。
修業年限1年で男子11人、女子11人、計22人が第一回卒業生である。
しかし、2年目は休校となった。
3年目に県営となり再開、24年には第一岡山高女の校舎に移った。
25年に修業年限が二年となり、26年には津島に移った。
岡山県栄養短期大学
30年短期大学に昇格、食物科が開設された。
36年岡山県立短期大学と名称を変更、同年3月、体育科増設が認可された。
40年県立高等看護学校を吸収し看護科、42年県立保育専門学園を吸収し保育科を増設した。

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