しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

佐竹義堯

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・秋田県秋田市  千秋公園


立派な銅像がお城の中心に建っている割には、その功績が今一つわからない。


秋田市役所HP

第12代秋田藩主佐竹義堯(よしたか)
(文政8年(1825)~明治17年(1884))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では新政府方に属して戦いました。
明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。








「歴史と人物」 昭和56年9月号  中央公論   昭和56年発行

奥羽越列藩同盟


複雑にからんだ諸藩の思惑の中で、同盟総体としての戦争目的ははたして明確であったか
そもそも、戦争において、何ゆえに、何のために戦うのかを不明確な結束となった。

一枚岩でなかった。
①朝敵グループ 会津藩・庄内藩、および桑名藩と旧幕脱走兵
②リーダーグループ 仙台藩・米沢藩・長岡藩
③懐疑的グループ 秋田藩・弘前藩・盛岡藩
④弱小藩 (現状維持・日和見)

目的と利害が異なり、諸藩の結束が弱かった。
目的意識の不統一が内部対立を招いた。

同盟結成時点から同盟の方向に懐疑的であり、諸藩間から異論のある藩とみられていた秋田藩・弘前藩は戦争にはいると離脱していった。
20万石余の大名で、後陣を固めるべき立場の藩である。










(Wikipedia)
佐竹義堯
佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、江戸時代後期の大名。
出羽国岩崎藩7代藩主、 のちに出羽久保田藩12代にして最後の藩主。
佐竹壱岐守家7代当主。佐竹氏第30, 32代当主。



文政8年(1825)~明治17年(1884)
出羽久保田藩主。
富国強兵と西洋砲術を推進した。
慶応4年、戊辰戦争では新政府を支持して、旧幕府支持派の奥羽列藩同盟と戦う。
明治2年その功で章典禄2万石を受け藩知事となる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行





撮影日・2018年3月24日


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