場所・福島県会津若松市一箕町(飯盛山)
「白虎隊」
南鶴ヶ城を望めば砲煙颶る
痛哭涙を飲んで且彷徨す
社稷 滅びぬ我事終る
十有九士屠腹して倒る
俯仰ここに十有七年
之を画にし之を文にし世間に伝う
(佐原盛純作)
会津白虎隊の少年たちが、みずから命を絶ったのは、慶応4年(1868) 8月23日、
年号が「明治」と改まる十数日前のことであった。
彼らは「明治」をかたくなに拒んで死んだ。
彼らの悲劇は、絵となり文となって、今の世に語り継がれた。
「日本史探訪21」 昭和60年 角川書店発行
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新政府軍の進撃は、会津側の予想をはるかに上回っていた。
石で造られた堅固な十六橋の破壊はなかなかはかどらない。
会津軍は、ついに降りしきる雨の中を、戸ノ口原まで退却しなければならなかった。
戸ノ口原で敵を迎えた会津藩も、急編成の未熟な軍勢であった。
義勇兵制度によって集められた農民・町人の応募兵、また若松市内107寺から募集された僧侶の部隊もあった。
彼らには武器も乏しく、軍事訓練の経験もなかった。
藩主容保公の護衛にあたっていた少年兵白虎隊が、急遽戸ノ口原に増援隊として派遣されたのは、22日の夕刻であった。
雨の中で一夜を明かした白虎隊は、
翌23日早朝、戦いに敗れて退却、飯盛山までたどりつき自刃した。
8月23日、夜明けとともに、新政府軍は滝沢峠を越えて、会津の城下に侵入した。
「日本史探訪21」 昭和60年 角川書店発行
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訪問日・2025年4月10日
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