しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年頃の学校生活

2021年08月22日 | 昭和20年(終戦まで)
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

終戦処理

8月16日学徒動員解除、
8月24日学校教練、学校防空関係の訓令が廃止
8月25日岡山県の通達
一 御真影、詔書類は奉安殿・奉安所に奉還すること
二 ポスターや戦意高揚の一切の資料は除去する、そのほか

戦災を受けなかった学校は、夏休みあけに二学期を迎えたが、児童の転出入はどの学校も多かった。
教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足はインフレの激化のなかで教師生活を不安定にした。

国民学校では男女共学が基準となり、二人用の机に男女が並んで席についた。



・・・

「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)

大井国民学校

終戦前後の思い出  K男(旧職員)

戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び、
汗を流して国の方針に微力を尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。

昭和20年8月15日正午、
あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止め度もなく涙が流れ、職員室に入って何時間も机にかじりつき悲しくて動けなかった事が思い出されます。

戦後はマッカーサーの指令とかで、色々の命令が次々と達せられ今まで大切に使用していた掛け軸や図書は一纏めにして提出、どう処理されたか不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし、
国民の混乱は児童生活のうえにも反映して昭和21年22年は極度の動揺を来たし、学校経営の困難にも遭遇しました。


思い出 F男(昭和20年度卒業)

5年生の頃は戦況も悪化し、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生とともに六道の山へ開墾に行き、切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしたものです。
運動会もありませんでした。

6年生の時は、戦況は最悪でした。
初等科以外の学校では授業を1年間停止され、中学生、高等科の生徒は学徒動員として兵器を作る工場へつれていかれました。

卒業写真は私たちの学年だけありません、しかし71名全員健在で生活を送っています。


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「大島東小学校百年史」 昭和50年発行より
大島中国民学校 

大島東小の思い出   H男(元大島東小教諭)

昭和20年になって疎開が激しくなり、この学区も疎開の児童が相当多くなって、私が受け持っていた4年生などは2人掛の腰掛に3人掛けさせても、まだ足らなくなり、
教壇に本やノートを置いて座って授業したこともあります。
習字の時間には2人掛でないと書けないので、廊下も使用していたほどです。
児童数は一学級80人くらいまでになっていたと思います。
机の間を通って巡視することなど出来ませんでした。



・・・
「神島史誌」

神島内国民学校


昭和20年2月4~5日 松根油製造つくり奉仕
    4月18日 高等科生、東村の山林開墾に着手
    6月22日 米機空襲。機関銃弾、付近に数発落とす

昭和21年10月 教育勅語の廃止

昭和23年4月 6.3.3の新学制実施
    5月21日 女児に対しDDT散布
    7月15日 BCG接種



「神島史誌」より
横江国民学校


昭和20年4月4日 入学式。男15、女14.
    4月27日 5.6年生全員終日開墾
    5月5日と11日 敵飛行機、頭上通過
    5月27日 小体育会。午後、義勇隊の結成会。婦人会は竹槍訓練
    5月30日 3年生以上、前8時半より後3時まで大殿洲開墾作業を実施
    6月1日 開墾地約2畝完成。サツマ芋の植付け終わる。

・・・

「学校誌~統合に寄せて~笠岡市立高島小学校」 昭和55年発行

高島国民学校


おもいで
昭和21年度卒業生 Y男

5.6年生の頃は、全校生徒70名もいたと思う。そのころは本当に楽しかった。

当時は先生方は島に泊まって共に生活しておられた。
土曜日になると、神島まで船で送っていたものです。
4年生の頃から2.3人で櫓を漕いで、先輩に潮の流れを教えてもらって、風が吹いても平気で送っていったものです。
これも当時の生きた教育ではなかっただろうか。

5年生の8月15日に終戦。
6年生の時、私は進学を志し必死で勉強した。
でも本は焼かれ或いは墨で黒く塗られ、当時の恩師K先生の指導は大変だったと思う。



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「吉田小学校百年史」 平成12年発行より

吉田国民学校


小学校の思い出 S子(昭和20年卒業)

昭和14年、私は尾坂分教場へ入学しました。

親が夜なべして藁草履を作っていくれて、それをはいて学校に行きました。
4年生になると本校に通います。
その頃になると吉田村から戦争に行った人が戦死され私たちは吉田駅から道へ並んでお迎えしました。
若い看護婦さんが戦死されてきれいな写真が遺骨とともに帰ってこられたときは涙がでました。

6年生の頃になると、この学校にもお友達が次々に疎開してきました。
都会からこられたお友達はきれいでよく勉強できて輝いてみえました。
昭和20年3月吉田国民学校を卒業しました。
修学旅行も卒業写真もありません。



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「笠岡小学校百年史」 昭和48年発行より

笠岡男子・女子国民学校


女子も男子と同様に軍需工場に動員された。

昭和20年6.15 学徒出動(女子校・高等科2年)
    6.28 学徒出動(男子校・高等科2年) 大塚工場へ入所式
    7.23 学徒出動(報国鉄工所)(女子校高等科1年)






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笠岡高等女学校 「笠岡高校70年史」
笠岡女学校・昭和20年卒手記  (O子)

昭和19年6月、私たち4年生にも動員令が下った。
昭和20年の新年を迎えたころから、敵機の襲来の数が増した。
がんばっている私たちに、予想もしなかったショック的な知らせが報じられた。
それは4年生で学校の終了課程を終えるということだった。
仕事をしながらも、書物をひもとき、友だち同志で研究はしあっていたけれでも、
もう一度、千鳥ケ丘の教室で勉強したいと思った。
もう少し、女学生生活を明るく楽しいものにしたかったと願ったが、それは時世的にもゆるされなかった。
万寿工場の川べりの柳の芽がふくらみかけた昭和20年3月31日、
動員生徒の合同卒業式が、三菱重工業水島製作所の講堂で行われた。


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