しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

犬養木堂③満州国

2021年05月14日 | 昭和元年~10年



満州事変起こる

「昭和6年9月18日全天降るような星空であった。
河本中尉は部下数名を連れて柳条溝へ向かった。
河本は自らレールに小型爆薬を装置して点火した。
爆破と同時に大隊本部に届き、
中隊長は直ちに兵を率いて南下、北大英に突撃を開始した」(関東軍参謀花谷少佐・手記)
北大営の中国軍はひとたまりもなく敗走した。

こうして柳条溝事件がはじまり「15年戦争」の幕は落とされた。

翌9月19日、長春・奉天など沿線諸都市を占領。
朝鮮軍は中央の命令なく独断で越境出兵した。
その日の閣議は、既成事実押して認め、「満州事変」と名づけた。

中国は、日本軍の侵略行為を非難して国際連盟に提訴した。
連盟は緊急理事会を開き、事件の不拡大、両軍の撤兵努力を勧告した。
だが解決には無力であった。
その間、日本軍は錦州を爆撃し、チチハルを占領し、ハルビンを占領した。



”王道楽土””五族共和”

満州事変が勃発して2週間もたたない昭和6年10月2日、
関東軍は「満蒙を独立国とし、これを我が保護下におき、国防・鉄道の管理は日本が担当する」
という満蒙問題解決案を決定した。

すなわち満蒙に日本のカイライ国家をつくるのが関東軍の意図だった。

天津で暴動をおこし廃帝溥儀を混雑にまぎれて、強引に旅順へ護送し建国を待った。
昭和7年3月1日建国宣言を発表、「王道楽土」「五族共和」という綱領をかかげた。


朝鮮抗日パルチザン

満州事変は植民地朝鮮の経済を一変させた。
日本窒素の野口遵は朝鮮窒素肥料を設立し大陸侵略の兵站基地につくりかえられていった。
土地を失った朝鮮の農民の窮乏は目をおおおうほどであり、労働者賃金は日本の1/5にも足らなかった。
大規模な小作争議が起こり、それは民族独立闘争と結びついた。
また多くの農民は流民となり、吉林省間島地方に移住した。
指導者は若い金日成であった。


「教養人の日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行









満州の陰謀者

柳条湖事件(満鉄戦爆破)が石原莞爾や板垣征四郎らの計画的陰謀であることは、こんにち広く知られている。
石原は、
「満蒙問題は之を我が領土にすることによりて初めて解決する」と述べ、
それは日本のためだけでなく「在満蒙諸民族の幸福を保護増進すべき正義の使命なり」との見解を示している。

犬養は早くから中国問題に関わった大陸派という側面がある。
中国国民党にも知人が多い。
したがって満州事変の収拾にすいても、ある程度の成算があったものと思われる。


1932年1月、上海事変(第一次)が起きた。
海軍陸戦隊は大苦戦した。
同年3月「満州国」の建国が宣言された。


「帝国の昭和」 有馬学  講談社2002年発行





(爆弾三勇士の現場)



城山三郎「落日燃ゆ」新潮社

「関東軍は、もはや日本の軍隊ではない。別の独立した軍隊ではないか」
という独立説までささやかれた。
関東軍司令官本庄中将は、事変勃発以来、参謀たちの手で軟禁同然の目にあい、信仰三昧の生活を送らされていた。
暴走したのは関東軍だけではなかった。
朝鮮軍司令官林銑十郎大将は、天皇の御裁可も届かぬ先に、勝手に鴨緑江を越えて朝鮮軍を満州に送った。

軍は参謀総長が外務大臣あたりに文句を言われてはおもしろくないので、閑院宮載仁親王を担ぎ出した。
海軍もこれにならって、伏見宮を軍令部長に戴いた。

関東軍は独走し続け、三月には満州国建国宣言が行われた。
五月、犬養首相は海軍の一団に襲われ斃れ、軍部の無言の威圧が、また強まった。





(関東軍)




「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行

辛亥革命と犬養
日本に亡命してくる中国人を庇護、助力をし、とくに孫文との関係は深かった。
明治29年三国干渉があった年以来である。
その2年後辛亥革命が起こる。
西園寺内閣は革命軍に反対した。

大正14年5月、逓信大臣を辞し、同時に議員も辞した。
信州に隠棲。
昭和4年7月補選があり、選挙民が再選さした。

昭和4年7月田中義一首相が辞職、3ヶ月後死亡。
昭和4年10月政友会総裁に決定。

昭和6年9月満州事変。
昭和6年12月若槻内閣が組閣後8ヶ月で退陣。
元老西園寺は悩みに悩んで、76歳の犬養毅を天皇に奏請した。

昭和7年1月、天皇の車列に爆弾(桜田門事件)。
昭和7年2月、衆院解散・総選挙。絶対多数獲得、304名。
昭和7年1月~3月、上海事変。


レットン調査団

昭和7年2月、来日。
昭和8年10月、「日本軍の行動は自衛行為と認められず。満州国は純粋な独立運動によって出現したものではない」
既成事実を狙って、その直前の9月日本は満州国を承認していた。








「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 


昭和6年9月19日、関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、
以後15年におよぶ戦争のきっかけとなった。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・○○金(読み取り不可)・肉弾三勇士
などのキャンペーンを行ったので、福山においても、そうした動きが活発になった。

9月24日朝日新聞社の主催で市内三か所(大黒座・盈進商業・誠之館中学)で開催された満州事変映画会には、
平日の昼間に2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼に劣らぬ盛況で「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち、陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会・排日資料展や第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などがひらかれるが、9月28日福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

このようななかで、市民の側からも積極的な動きが出てくる。
「我が満蒙派遣軍の正当なる行動を支持する」という在郷軍人会福山支部の決議を皮切りとして、
9月30日には千田村で500人参加の「対支問題」の強硬な決議を採択。
福山市では11月23日、天守閣広場で市民大会が開催され、当局を支持激励し、東洋永遠の平和を宣言採択した。
11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

12月18日第五師団に出動の下令あり、四十一連隊からも若干部隊の出動が命じられた。
福山はわきたった。
12月19日午後6時から市民の提灯行列で門出を祝った。
12月21日午前3時の派遣部隊の福山駅出発にあたっては、沿道・駅頭ともに見送り人が殺到したという。

翌昭和7年1月6日に南小学校で錦州入城映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。
郷土部隊の「活躍」もあり、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールが出るほど市民は熱狂した。

2月24日「肉弾三勇士」の第一報がもたらされると、たちまち大ブームとなり、各学校で終身の時間を割いて三勇士の話を生徒に聞かせた。
娼妓連は軍服姿で三勇士踊りを披露するなど、「どこもかしこも肉弾三勇士が大もてで、
市も4月17日公会堂で肉弾三勇士の会を開催した。

4月にはいると出征兵士が徐々に帰還し始めた。
遺骨となって帰還もあったが、当時の新聞はこれを「悲しいもの」としていることが注目される。





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