しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

犬養木堂②統帥権干犯

2021年05月14日 | 昭和元年~10年






「サンデー毎日」 2017.11.26号 

5.15事件「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

犬養毅は「憲政の神様」といわれ、日本の議会政治の申し子とされている。
しかしミステークもまた何度か犯している。

たとえば、昭和5年のロンドン海軍軍縮では対米英7割を不満とした軍令部長に、
政友会の犬養や鳩山一郎が「統帥権干犯ではないか」と攻撃を続けた。
つまり軍部の力を借りて政府を攻撃するという構図になった。

軍部に伝家の宝刀があることを教え、
つまるところ日本が戦争に入っていく武器になった。




「岡山人じゃが2009」 岡山ペンクラブ  吉備人出版 2009年発行

ロンドン条約をめぐっては、時の右翼だけなく政友会までが、
議会で浜口内閣が条約を成立させたことは「統帥権の干犯である」
として激しく追及した。

政友会総裁の犬養毅は「用兵の責任に当たっている軍令部長は、この兵力量では国防はできないと断言している」
と浜口首相に質問した。
政友会幹部の鳩山一郎は
「国防計画は統帥府の責任である、政府が変更するのは一大政治冒険だ」と追及した。
これ以降「統帥権干犯」の言葉が軍部だけでなく政治世界のなかに急速に一人歩きを始めた。


これはもともと海軍内部の海軍省派(条約派)と軍令部派(艦隊派)との覇権争いであるが、
以後海軍だけでなく陸軍を含めた軍部への批判に対しては、
「統帥権干犯だ」と反論して「泣く子も黙らせる」極めて有効な脅し文句となった。


「憲政の神様」といわれた犬養毅が浜口首相の民政党に対する攻撃という政争が目的だったとはいえ、
結果的に軍部の強権な行動に手を貸し、
軍部独裁体制を助長することになったことは、まことに残念である。







統帥権干犯 日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


1930年(昭和5)1月から4月まで、
ロンドン海軍軍縮会議は、統帥権問題などはまったく論議のまとになっていなかった。
ところが幣原外相の外交演説が導火線になり、軍令部は無視の越権行為であり統帥大権を侵犯するものだと非難した。

犬養政友会総裁や鳩山一郎は軍令部の後押しをした。
政党人である犬養や鳩山が軍令部の主張を支持して政府を攻撃するなどは政党政治の自殺行為であった。

議会は連日統帥権論争に終始し新聞は派手にこれを報道した。
軍令部長は統帥大権侵犯を糾弾する上奏文をもって直接天皇に辞意を表明した。
6月、軍令部長と海軍大臣は意見の一致を必要とする覚書を確認し一応落着した。

11月14日、陸軍大演習に参加の途次浜口首相は右翼青年・佐郷屋留雄に射たれて重傷を負った。
”屈辱条約締結と統帥権干犯”がその動機であった。







(川崎の煙突男)






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