しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

西日本縦断駅伝(下関~大阪)

2023年09月25日 | 失われた仕事

城見小学校の前を、国道2号線が通り、その道では下関から大阪までの駅伝大会が毎年開催されていた。
全国大会なので、当然ながら国内トップレベルの選手たちが毎年、城見小学校の前を走っていた。
下関から大阪に向かうコースで前日は福山市の中心付近がゴールで、
朝に福山をスタートし午前10~11時頃、城見学校前を通った。


全校生徒は駅伝ランナーが走ってくる20~30分前に校庭に集合した。
そこで主催者の読売新聞の小旗をもらい、学校の下の国道2号線でやってくるであろう選手を待った。

選手は今の駅伝と同じで、肩に襷をかけて走ってきた。
47都道府県の選手が次々に来たり、間をあけて走り去っていった。
旗を振って”がんばれー”、
岡山県選手と広島県選手への声援が高かったような気がする。その頃、東北や九州は今でいう外国よりも遠い存在だった。

小学生たちにとっては、授業が1時間ほど飛ぶので歓迎していた恒例行事だった。
お隣の大津野小学校と金浦小学校は国道2号線に近いから、城見小と同じように小旗を振って応援したのだろう。
北隣の陶山小学校や、井原市の小学校はまったく縁がない行事。
富岡小学校は応援したのだろうが、笠岡西小・東小はどうだったんだろう?

そのことよりも、
国道2号線を道路規制もなく全国大会の選手が走っていた、という事実が、
今となっては不思議としかいえないほど、日本経済も日本道路も低開発国の状況だった。

 

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東日本縦断駅伝

(Wikipedia)


東日本縦断駅伝(ひがしにっぽんじゅうだんえきでん)は、読売新聞社主催によるロードレース大会である。スタートの青森県とゴールの東京都の頭文字をとって『青東(あおとう)駅伝』とも呼ばれた。大会スローガンは「花になれ 風になれ 人は誰でもチャレンジャー」であった。

歴史
この大会は、サンフランシスコ講和条約の調印を記念して1951年に「青森東京駅伝」として第1回大会が開催された。コースは青森県・青森市(青森県庁前)からスタートして、岩手県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、埼玉県を経由して東京都・銀座(読売新聞本社前)を55区間・759.0kmで走破する東日本の都道県対抗レースとしてスタートし、以来毎年11月に開催されてきた。その後距離こそ若干の前後があるものの55区間は不変で1970年の第20回大会まで続いた。その後1971年の21回大会からコースが秋田県・山形県経由となり、ゴールが東京都・大手町に変更された(これは、交通事情の悪化と読売新聞の本社が移転した事に伴うものだった)。

一旦1974年の24回大会を最後に休止されたが、1982年に東北新幹線の開業を記念して岩手県・盛岡市(岩手県庁前)から東京都・大手町のコースで大会名称を「東日本縦断駅伝」と改め25回大会として復活し、1983年の第26回から再び青森スタートの完全復活となる。1984年~1993年の10年間は女子選手も出場したことがあったが、1994年から男子選手のみに戻る。東京都チームが4回の完全優勝(全区間1位)を含む23回の総合優勝歴を誇った。

関連大会
元々、東日本縦断駅伝は青森-下関を結ぶ駅伝構想の第一区間として行われた、第二区間として東京大阪駅伝(東京 - 大阪)、第三区間として西日本縦断駅伝(大阪 - 下関)が存在したが、いずれも1970年に消滅したままとなっている。実現すれば、さらに2013年に廃止された九州一周駅伝(2011年より「グランツール九州」)を含め、青森から九州を一本のたすきでつなぐ一大駅伝プロジェクトが確立していたことになる。

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