祖母が亡くなるまで、家には天皇・皇后の写真を掲げてあった。
戦前に購入したご真影だが一時(終戦直後)は、どこかに隠していたそうだ。アメリカ軍に持っているのを見つけられたら、「何をされるかわからん」と心配していたようだ。
父は岡山の軍にいたが、仕事で近くの県庁(当時は天神山)に行くことが多く、
8月になると、県庁の人から「負けるよ」と教えてもらっていて玉音放送の内容は事前に知ってした。
作家・五木寛之さんが書いている、終戦前に政府・軍人の高官が、市民に知らせることなく自分たちだけ逃げたのは日本人として情けない。
満州でも、同じように市民から脱出するマニュアルがあるにも関わらず、現実は「最後に逃げる人」が「最初に逃げた、しかもこっそり」と。
今でも国家のエライ人の言うことを、どこまで信じていいのか、よくわからない。
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
「美星町史」 美星町史編集委員会 山陽印刷 昭和51年発行
終戦の時
国民の生活は日増しに苦しくなり、疲労と飢えにあえぎながらも「負けたら一人残らず殺される」という宣伝がされて一段と緊張を増した。
山野で働いているものも田畑を耕作しているものも、戦場のようなすさまじい音を耳にすることがあり、夜は遠くの空が真っ赤に染まり、どこかが焼けていることを感じた。
ついに昭和20年8月15日をむかえた。
丁度その日、私どもの周囲に「降伏せよ」と印刷したビラが飛んできた。
母が「戦争が終わったら電灯が点けられるかなあ」といった。
外へは出せない悲しみの一つ、それは妊婦の苦しみであった。
妊産婦は栄養もとれず、特に動物蛋白源は何一つなく、煮干しさえ一週間に一度、食べるか食べないかの生活、胎児の順調な発育等は望むすべもない。
・・・・
「勝央町史」 勝央町 山陽印刷 昭和59年発行
戦後の混乱
やがて進駐してくる外国軍隊についての恐怖心は相当なものであったようだ。
「男子はキンを抜かれる。娘は慰安婦に供出させられる」などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。
また「戦争に関係ある書類は焼却せよ」という上からの指令があって関係のない書類まで焼き捨てた役所や学校も多く、これが戦時中の記録をなくした大きな原因になった。
・・・・
「奥津町史 下巻」 奥津町 平成17年発行
敗戦
正午の時報に続いて和田信賢放送員がマイクに向かい、
「ただいまより重大なる放送があります。
全国聴取者の皆様、ご起立願います」
続いて下村宏情報局総裁がマイクに向かい
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくもおんみずから大詔を宣(の)らせたもうことになりました。
これより、謹みて玉音をお送り申します」。
詔書は次のとおりである。
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ(以下略)
当時国民学校4年生の少年は、玉音放送の内容は解らなかったが、
大人たちは一様に虚脱状態で「ついに敗れた」と教えてくれた。いち早く母に知らせたら「やれやれ、これで安心できる」と一言つぶやいた。
墨汁で塗りつぶした教科書を用いて5年生になった。
・・・・
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
「わが人生の歌がたり」 五木寛之 角川書店 平成19年発行
玉音放送を聴く
当時・ピョンヤン一中学校の1年生。
敗戦の直前には、四十を過ぎた父親までが「教育召集」といって、召集されたのにはびっくりしました。
兵隊に行くのは若い人たちばかりだと思っていたら、いい年をした学校教師まで引っ張りだされたのですから。
それでも一般の国民は「神風」を信じていたのです
漠然と信じていたんです。
「神州不滅」と子どものときからたたき込まれていましたから、この国が負けるなんて絶対あり得ないと思っていました。
8月15日に「今日は大事な放送があるから」と、学校の先生に言われて、校庭に集合したときは、
まさか日本が敗れるなどということは想像もしていませんでした。
それが玉音放送だったのです。
校庭に全員集合して、ラジオから流れる雑音の混じった放送を聞きました。
あ、これでもう苦しい作業はしなくていいんだ。
何か長い夏休みが始まるような、開放感のような、空しさのような、ポカンとした空白感がありました。
そしてこの後、何が来るのかまったく予想もつかない不思議な感じでした。
父は「神州不滅」を信じていた教師でしたが、本当に茫然自失で、
どう判断していいのかわからずに立ちすくんでいました。
ところが戦局の情報を把握していた人は事前からうまく対応していたようです。
敗戦の時にはすでに、
軍部の上層部の家族や、財閥、高級官僚の家族は、山のように家財道具を積んで、ピョンヤンから南下していたようです。
上の人たちは、列車が動いている間にソウルへ、内地へ向かっていたのです。
やがて朝鮮人たちの民主組織などが、どんどん活発になってゆき、身の危険を感じるような雰囲気でした。
軍歌がまったく聞かれなくなったのは、やはり驚くべき変化でした。
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
・・・・
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行
15日正午、ラジオから玉音放送が流れた。
次いで、
同夜のラジオと16日の新聞各紙で終戦に関する内閣告論が発表された。
軍人・軍属を中心に終戦に、抗議・絶望、あるいは敗戦責任を負っての自決が相次ぎ、
その数は軍人・軍属だけで600名を超えた。
大本営は16日午後4時、全部隊に対して停戦命令を発した。
停戦は、おおむね滞りなく実施されたが、ソ連軍の侵攻が続いた満州・樺太ではなお一週間も戦闘が続いた。
無条件降伏が正式に布告されたのは9月2日のことである。
8月15日午後、鈴木内閣は敗戦責任をとって総辞職した。
木戸内大臣は平沼と協議の上、皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を後継首班として、近衛文麿に後援を求めることにした。
16日、東久邇宮に天皇の組閣命令が下った。
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
戦前に購入したご真影だが一時(終戦直後)は、どこかに隠していたそうだ。アメリカ軍に持っているのを見つけられたら、「何をされるかわからん」と心配していたようだ。
父は岡山の軍にいたが、仕事で近くの県庁(当時は天神山)に行くことが多く、
8月になると、県庁の人から「負けるよ」と教えてもらっていて玉音放送の内容は事前に知ってした。
作家・五木寛之さんが書いている、終戦前に政府・軍人の高官が、市民に知らせることなく自分たちだけ逃げたのは日本人として情けない。
満州でも、同じように市民から脱出するマニュアルがあるにも関わらず、現実は「最後に逃げる人」が「最初に逃げた、しかもこっそり」と。
今でも国家のエライ人の言うことを、どこまで信じていいのか、よくわからない。
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
「美星町史」 美星町史編集委員会 山陽印刷 昭和51年発行
終戦の時
国民の生活は日増しに苦しくなり、疲労と飢えにあえぎながらも「負けたら一人残らず殺される」という宣伝がされて一段と緊張を増した。
山野で働いているものも田畑を耕作しているものも、戦場のようなすさまじい音を耳にすることがあり、夜は遠くの空が真っ赤に染まり、どこかが焼けていることを感じた。
ついに昭和20年8月15日をむかえた。
丁度その日、私どもの周囲に「降伏せよ」と印刷したビラが飛んできた。
母が「戦争が終わったら電灯が点けられるかなあ」といった。
外へは出せない悲しみの一つ、それは妊婦の苦しみであった。
妊産婦は栄養もとれず、特に動物蛋白源は何一つなく、煮干しさえ一週間に一度、食べるか食べないかの生活、胎児の順調な発育等は望むすべもない。
・・・・
「勝央町史」 勝央町 山陽印刷 昭和59年発行
戦後の混乱
やがて進駐してくる外国軍隊についての恐怖心は相当なものであったようだ。
「男子はキンを抜かれる。娘は慰安婦に供出させられる」などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。
また「戦争に関係ある書類は焼却せよ」という上からの指令があって関係のない書類まで焼き捨てた役所や学校も多く、これが戦時中の記録をなくした大きな原因になった。
・・・・
「奥津町史 下巻」 奥津町 平成17年発行
敗戦
正午の時報に続いて和田信賢放送員がマイクに向かい、
「ただいまより重大なる放送があります。
全国聴取者の皆様、ご起立願います」
続いて下村宏情報局総裁がマイクに向かい
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくもおんみずから大詔を宣(の)らせたもうことになりました。
これより、謹みて玉音をお送り申します」。
詔書は次のとおりである。
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ(以下略)
当時国民学校4年生の少年は、玉音放送の内容は解らなかったが、
大人たちは一様に虚脱状態で「ついに敗れた」と教えてくれた。いち早く母に知らせたら「やれやれ、これで安心できる」と一言つぶやいた。
墨汁で塗りつぶした教科書を用いて5年生になった。
・・・・
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
「わが人生の歌がたり」 五木寛之 角川書店 平成19年発行
玉音放送を聴く
当時・ピョンヤン一中学校の1年生。
敗戦の直前には、四十を過ぎた父親までが「教育召集」といって、召集されたのにはびっくりしました。
兵隊に行くのは若い人たちばかりだと思っていたら、いい年をした学校教師まで引っ張りだされたのですから。
それでも一般の国民は「神風」を信じていたのです
漠然と信じていたんです。
「神州不滅」と子どものときからたたき込まれていましたから、この国が負けるなんて絶対あり得ないと思っていました。
8月15日に「今日は大事な放送があるから」と、学校の先生に言われて、校庭に集合したときは、
まさか日本が敗れるなどということは想像もしていませんでした。
それが玉音放送だったのです。
校庭に全員集合して、ラジオから流れる雑音の混じった放送を聞きました。
あ、これでもう苦しい作業はしなくていいんだ。
何か長い夏休みが始まるような、開放感のような、空しさのような、ポカンとした空白感がありました。
そしてこの後、何が来るのかまったく予想もつかない不思議な感じでした。
父は「神州不滅」を信じていた教師でしたが、本当に茫然自失で、
どう判断していいのかわからずに立ちすくんでいました。
ところが戦局の情報を把握していた人は事前からうまく対応していたようです。
敗戦の時にはすでに、
軍部の上層部の家族や、財閥、高級官僚の家族は、山のように家財道具を積んで、ピョンヤンから南下していたようです。
上の人たちは、列車が動いている間にソウルへ、内地へ向かっていたのです。
やがて朝鮮人たちの民主組織などが、どんどん活発になってゆき、身の危険を感じるような雰囲気でした。
軍歌がまったく聞かれなくなったのは、やはり驚くべき変化でした。
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
・・・・
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行
15日正午、ラジオから玉音放送が流れた。
次いで、
同夜のラジオと16日の新聞各紙で終戦に関する内閣告論が発表された。
軍人・軍属を中心に終戦に、抗議・絶望、あるいは敗戦責任を負っての自決が相次ぎ、
その数は軍人・軍属だけで600名を超えた。
大本営は16日午後4時、全部隊に対して停戦命令を発した。
停戦は、おおむね滞りなく実施されたが、ソ連軍の侵攻が続いた満州・樺太ではなお一週間も戦闘が続いた。
無条件降伏が正式に布告されたのは9月2日のことである。
8月15日午後、鈴木内閣は敗戦責任をとって総辞職した。
木戸内大臣は平沼と協議の上、皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を後継首班として、近衛文麿に後援を求めることにした。
16日、東久邇宮に天皇の組閣命令が下った。
(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)
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