笠岡市西本町のの古刹・威徳寺に生まれた音楽評論家長田暁二さんは、”露営の歌”は
「軍国歌謡の最大傑作の一つと称された」と記述されている。
管理人が幼いころ、戦争は終わっていたが、近所の年上の男の子は「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら遊んでいた。
よほど大ヒットし、国民の愛唱歌となっていたのだろう。
映画やテレビでも、村の神社や駅や港での出征兵士を送るシーンでは、決まったようにこの歌が画面に流れる。
「太平洋戦争下の学校生活」 岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。
露営の歌
提灯行列も旗行列も、子どもにとっては、お祭りに似た面白い行事だった。
出征兵士は神社で武運長久を祈ってから、駅で電車に乗る。
この時、
駅頭で決まって歌われるのが、『露営の歌』だった。
〽
勝ってくるぞと勇ましく・・
勇壮というよりは悲壮だ。
二番以下の歌詞になると,歌詞そのものにも悲壮感がみなぎってくる。
そのためかどうか、一番の歌詞のみ繰り返し歌っていた。
ちなみに四番と五番は、
〽
思えば今日の戦いに
〽
戦する身は予てから
一緒によく歌ったもう一つの軍歌は、
『日本陸軍』
〽
天に代わりて不義を討つ
出征兵士の見送りに小学生がぞろぞろついていくことは、特別な時以外、次第に見られなくなった。
特別な、というのはその小学校の先生の応召の場合である。
つまり、それだけ出征は日常的になってきていた。
普通の出生は、家族と近所の人たちの見送りだけで、あとは、
かっぽう着にたすきをかけた国防婦人会の人たちが、線路際に並んで、日の丸の小旗を振る程度になった。
電車はあっという間に走りすぎてしまう。
出征兵士が、普通の乗客と同じ電車に乗っていくことが、子どもの私には不思議でならなかった。
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信 展望社 2012年発行
露営の歌
支那事変は、
「暴戻支那の膺懲」が合言葉であった。
連日新聞の紙面は戦争記事で埋められ、”暴支膺懲(ぼうしようちょう”の強硬論で統一された。
新聞の戦争支持ぶりは熱狂的であった。
支那事変から大東亜戦争の間に、最も愛唱されたのが「露営の歌」。
歌詞は一番から終番まですべてに「死」の影が揺曳していた。
露営の歌 作詞:薮内喜一郎 作曲:古関裕而
〽
勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波
〽
土も草木も 火と燃える
果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜
馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る
〽
弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草まくら
夢に出てきた 父上に
死んで還(かえ)れと 励まされ
醒(さ)めて睨むは 敵の空
〽
思えば今日の 戦闘(たたかい)に
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか
〽
戦(いくさ)する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
ないてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんの命が 惜しかろか
東京日日新聞の「進軍の歌」懸賞募集の第2席の詞について選者の一人北原白秋が、
「優れている、もし曲がつくなら」と発表された。
満州から帰途の船内で古関裕而は依頼の電報を受けた。
山陽線の各駅ですでに見られた光景で、武運長久の旗をなびかせたり、日の丸の旗をふるリズムの中で、
ごく自然に作曲してしまった。
十五年戦争下の最高の傑作とされる「露営の歌」は、発売二か月後、前線の兵士が合唱する風景が夕刊に報道された。
(岡山駅)
「千田学区地域誌」 福山市千田学区町内会 2008年発行
召集と出征
体験・男性 大正15年生れ
突然、赤紙が届きました。
入隊に際しては、町内の人々や婦人会の方々など大勢の見送りで、壮行会をして頂き、私は次ような挨拶をしたのを思い出します。
「男子の本懐、これにすぐるものはございません。
入営した暁には、一意専心、軍務に勉励し、皆さまの万分の一にも報いる覚悟でございます。
皆さま方におかれましても、銃後の守り、よろしくお願いします。
”今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出立つ吾は”
では、行って参ります。」
昭和20年初め、19歳で大坂の聯隊に入営する前日、日の丸の旗を振りながら、
福山駅まで坂田の方の見送りを受けました。
私は家族と隣人たちに「武運長久」の寄せ書きをしてもらった日の丸の旗を肩にかけて出発しました。
福山駅では、出征する仲間が多くいて、日の丸の旗がうちふられ、
「天に代わりて不義を討つ忠勇無双の我が兵は・・・」
「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国をでたからにゃ 手柄たてずに死なりょうか・・・」
の大合唱。
大勢の見送りを受けました。
ぼくの姿を見つめていた母の姿が思い出されます。
息子を戦場へ送る母が、人前で泣くのは許されなかった時代でした。
「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行
露営の歌
日支事変が勃発すると各新聞社等のマスコミは挙って,沢山の時局歌・愛国歌を募集選定した。
「露営の歌」は毎日新聞の公募入選2位の作品。
北原白秋が「2席に上手く曲が付けば第二の「戦友」になるとコメントしていた。
古関裕而が作曲、
コロンビアの第一線男性歌手を総動員、中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章が歌唱、大衆は飛びつき発売後半年で60万枚を売るレコード界の新記録を作る大ヒットになった。
軍国歌謡の最大傑作の一つと称された。
「死んで帰れと励まされ」の文句に人気が出て仕舞ったのである。
「軍国歌謡の最大傑作の一つと称された」と記述されている。
管理人が幼いころ、戦争は終わっていたが、近所の年上の男の子は「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら遊んでいた。
よほど大ヒットし、国民の愛唱歌となっていたのだろう。
映画やテレビでも、村の神社や駅や港での出征兵士を送るシーンでは、決まったようにこの歌が画面に流れる。
「太平洋戦争下の学校生活」 岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。
露営の歌
提灯行列も旗行列も、子どもにとっては、お祭りに似た面白い行事だった。
出征兵士は神社で武運長久を祈ってから、駅で電車に乗る。
この時、
駅頭で決まって歌われるのが、『露営の歌』だった。
〽
勝ってくるぞと勇ましく・・
勇壮というよりは悲壮だ。
二番以下の歌詞になると,歌詞そのものにも悲壮感がみなぎってくる。
そのためかどうか、一番の歌詞のみ繰り返し歌っていた。
ちなみに四番と五番は、
〽
思えば今日の戦いに
〽
戦する身は予てから
一緒によく歌ったもう一つの軍歌は、
『日本陸軍』
〽
天に代わりて不義を討つ
出征兵士の見送りに小学生がぞろぞろついていくことは、特別な時以外、次第に見られなくなった。
特別な、というのはその小学校の先生の応召の場合である。
つまり、それだけ出征は日常的になってきていた。
普通の出生は、家族と近所の人たちの見送りだけで、あとは、
かっぽう着にたすきをかけた国防婦人会の人たちが、線路際に並んで、日の丸の小旗を振る程度になった。
電車はあっという間に走りすぎてしまう。
出征兵士が、普通の乗客と同じ電車に乗っていくことが、子どもの私には不思議でならなかった。
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信 展望社 2012年発行
露営の歌
支那事変は、
「暴戻支那の膺懲」が合言葉であった。
連日新聞の紙面は戦争記事で埋められ、”暴支膺懲(ぼうしようちょう”の強硬論で統一された。
新聞の戦争支持ぶりは熱狂的であった。
支那事変から大東亜戦争の間に、最も愛唱されたのが「露営の歌」。
歌詞は一番から終番まですべてに「死」の影が揺曳していた。
露営の歌 作詞:薮内喜一郎 作曲:古関裕而
〽
勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波
〽
土も草木も 火と燃える
果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜
馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る
〽
弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草まくら
夢に出てきた 父上に
死んで還(かえ)れと 励まされ
醒(さ)めて睨むは 敵の空
〽
思えば今日の 戦闘(たたかい)に
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか
〽
戦(いくさ)する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
ないてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんの命が 惜しかろか
東京日日新聞の「進軍の歌」懸賞募集の第2席の詞について選者の一人北原白秋が、
「優れている、もし曲がつくなら」と発表された。
満州から帰途の船内で古関裕而は依頼の電報を受けた。
山陽線の各駅ですでに見られた光景で、武運長久の旗をなびかせたり、日の丸の旗をふるリズムの中で、
ごく自然に作曲してしまった。
十五年戦争下の最高の傑作とされる「露営の歌」は、発売二か月後、前線の兵士が合唱する風景が夕刊に報道された。
(岡山駅)
「千田学区地域誌」 福山市千田学区町内会 2008年発行
召集と出征
体験・男性 大正15年生れ
突然、赤紙が届きました。
入隊に際しては、町内の人々や婦人会の方々など大勢の見送りで、壮行会をして頂き、私は次ような挨拶をしたのを思い出します。
「男子の本懐、これにすぐるものはございません。
入営した暁には、一意専心、軍務に勉励し、皆さまの万分の一にも報いる覚悟でございます。
皆さま方におかれましても、銃後の守り、よろしくお願いします。
”今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出立つ吾は”
では、行って参ります。」
昭和20年初め、19歳で大坂の聯隊に入営する前日、日の丸の旗を振りながら、
福山駅まで坂田の方の見送りを受けました。
私は家族と隣人たちに「武運長久」の寄せ書きをしてもらった日の丸の旗を肩にかけて出発しました。
福山駅では、出征する仲間が多くいて、日の丸の旗がうちふられ、
「天に代わりて不義を討つ忠勇無双の我が兵は・・・」
「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国をでたからにゃ 手柄たてずに死なりょうか・・・」
の大合唱。
大勢の見送りを受けました。
ぼくの姿を見つめていた母の姿が思い出されます。
息子を戦場へ送る母が、人前で泣くのは許されなかった時代でした。
「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行
露営の歌
日支事変が勃発すると各新聞社等のマスコミは挙って,沢山の時局歌・愛国歌を募集選定した。
「露営の歌」は毎日新聞の公募入選2位の作品。
北原白秋が「2席に上手く曲が付けば第二の「戦友」になるとコメントしていた。
古関裕而が作曲、
コロンビアの第一線男性歌手を総動員、中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章が歌唱、大衆は飛びつき発売後半年で60万枚を売るレコード界の新記録を作る大ヒットになった。
軍国歌謡の最大傑作の一つと称された。
「死んで帰れと励まされ」の文句に人気が出て仕舞ったのである。
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