明治19年「四四制」となった。
”義務”教育ではなく、”就学義務”であった。
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「ビジュアル版 学校の歴史」 岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行
A. 女子の就学率を上げるため
明治10年代(1877~86年) くらいまでは女子の就学率は低く、男子の半分くらいでした。
その頃、兵庫県の田舎で小学校初等科(3年)を修了したのち、中等科3年)に進まず退学した子どものその後を調べてみると、
男子は家業の手伝い、女子は裁縫塾に通っていることが多いことがわかりました。
そのころの人々には教育の必要さがよくはわからなかったですし、実生活に役立つとも思われない学校に授業料を払ってまで、通学させるほどの
よゆうもなかったのです(「兵庫県教育史』)。
このことは全国で同じ傾向にあることが文部省もわかったのでしょう。
1880 (明治13)年に、前年に出した「教育令」を改正し「ことに女子の為には裁縫科を設けるべし」と教科編成を改めました。
裁縫は女子の就学率をあげるための手段だったのです。
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(明治20年「学校の歴史」汐文社)
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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
初代文相に就任した森有礼は、明治19年(1886) 「小学校令」をはじめ各学校種別毎の学校令を制定した。
その小学校によって、小学校は尋常高等の二種・二段階編制となった。
学齢は従来通りであるが、就学義務については、「尋常小学科卒ラサル間ハ就学セシムヘン」(小学校令第四条)と定めている。
しかし、土地の情況によって尋常小学校の代用として、小学簡易科の設置を認めている。
同年、修業年限を高等尋常とも各四年とし、四四の制度となった。
なお尋常小学校・高等小学校の名称は、その後昭和16年に小学校が国民学校と改称されるまで、戦前、長期にわたってもちいられた。
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