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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

斎藤別当実盛

2021年10月21日 | 銅像の人
場所・ 石川県小松市上本折町 多太神社



「平家物語」  世界文化社 1976年発行

実盛

武蔵の国の住人斎藤別当実盛は、味方の軍勢はすべて逃げていったが、
ただ一騎、
引き返しては戦い、引き返しては防ぎ、戦いしていた。

木曽方からは手塚太郎光盛、よい敵と目をつけ
「やあやあ、ただ一騎残って闘われるのか。
さてもゆかしき武者ぶりよ、名乗らせたまえ」と声をかける。

「おうよい敵にあった。寄れ、組もう、手塚」

・・

駆けつけてきた家来に、手塚は実盛の首をとらせ、義仲の前に駆け付けた。

「おお、あっぱれ、これはたぶん、斎藤別当実盛ではないか。
幼目に見たことがあるから覚えているが、その時もうごま塩頭であった。
今はさだめて白髪になっているはずなのに、この首は鬢髭の黒いのは解せぬ。
樋口次郎は、年来親しくつきあっていたから見知っておろう。
樋口を呼べ」
という、樋口次郎は一目見るなり、
「ああいたましい、たしかに斎藤別当実盛でございます」
と、涙を流した。
樋口次郎はなおも落涙しつつ、
「この首は白髪を染めております。
ためしに髪を洗わせてごらんなされませ」
義仲が、その首を洗わせてみると、なるほど白髪になってしまった。






「芭蕉物語・中」 麻生磯次  新潮社 昭和50年発行

小松というところに来たが、小松とはかわいらしい名である。
その名にふさわしく可憐な松が生えていて、
その小松に吹く風が、その辺にある萩や薄をなよなよとなびかせている。
芭蕉はいたく旅情をそそられたのである。

多田神社に立ち寄り、次の句を奉納した。

むざんなや甲の下のきりぎりす

「甲」は多田神社へ奉納された実盛の甲である。
芭蕉はその甲を実際に見て、その悲壮な最期を思い浮かべたのである。




撮影日・2020年1月28日


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真備町「岡田更生館事件」その4・・・「鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児」から

2021年10月21日 | 昭和21年~25年
岡田更生館があった当時の日本は、
両親がいる子は、ぎりぎりの食事ができた。
片親の子は欠食がち、
孤児は、働くか、かすめとるか、その日暮らし。生存権以前。

戦災孤児が主役のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、国民的人気となり映画化され、主題曲は今でも童謡として歌われている。



(昭和23年「鐘の鳴る丘」主演・佐田啓二)


「この30年の日本人」 児玉隆也  新潮社  昭和50年発行 
鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児

”緑の丘の赤い屋根”に38歳の医師品川房二は東京からやってきた、
「あれから25年か」。

25年前の少年は、浮浪児と呼ばれていた。
5人の少年が、1人の復員兵と暮らした丘である。
そして”トンガリ帽子の時計台”は、その後700人を超える孤児たちの人生に時を刻んだ。
品川房二は、元の名を斎藤房二といった。
菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』がまだ「時代」そのものであったころ、
彼は靴磨きの少年であった。

房二は、静岡空襲で父を失い、母は火傷を負って死んだ。
房二は兄弟と転々とするうち、ガード下に寝る少年となった。
やがて浮浪者狩りで捕えられ収容所に送られた。
12歳の房二は、収容所を三度脱走し、そのつど捕まっている。

昭和22年も夏に夏に入ろうとしていた時、新設された「葵寮」には60人の少年がいた。
汗と垢で異臭をはなち、ぼろぼろの衣類は寝小便と泥にまみれて、長く伸びた頭髪には虱が巣くっている。
葵寮の鉄格子に監禁された少年たちは
「銀シャリもってこい!」
「煙草吸わせろ!」
「大人のうそつき野郎!」
と、刑務所の暴動さながらに暴れ、やがて諦めて静かになった。
少年たちは、逃亡、入所、逃亡、入所をくりかえした。
夕方になるとラジオからひとつのメロディが聞こえてくる。

緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴ります きんこんかん・・・

葵寮の鉄格子が問題になり、職員間の内紛や思想的対立が表面化した。
昭和22年12月5日、品川博と5人の少年たちはリュックを背負い鍋釜を背負って寮を出た。
彼等は互いに誓文を書き、こんな一行をつけ加えた。
「この子供たちは浮浪児ではありません。浮浪児狩りには絶対に連れて行かないで下さい」
落ち行き先は、茨城県古河。
だが地元住民の反対にあい、一夜で上野の地下道に寝ることになる。
師走の地下道の淡い電灯の下には、復員乞食や男娼や、浮浪児であふれていた。

古巣に戻った少年たちは嬉々としてこんな仁義を切るのであった。
「おひかえなすって、おひかえなすって、
手前生国とはっしましては遠州でござんす。
石松で名高い森町ではございません、歴史に聞こえた三方ヶ原、
チンピラ浮浪児もふるえあがった、鉄の格子の葵寮、
鉄の格子で6ヶ月、すいとんかぼちゃばかり食ってはいたが、
いささか筋金が入ったしがねえ戦災孤児の旅烏でござんす。
頭を含めておいら6人、親はなくとも子は育つ、
仮寝の宿の地下道も皆さん方とは筋違い、
チャリンコ、カッパライは真っ平ご免、
げそ磨きはしていても希望は高し富士の山、
愛と誠のヤサを建て6人仲良く暮らすまで、苦難の道を奮闘努力、
奇特な御仁は切に御援助・・・・・」

少年たちは靴を磨いて食物を得た。
やがて少年たちは品川の故郷前橋に移り住む。
それから赤城山の麓の村に、赤いトンガリ屋根の時計台が立つまで労働が年々つづいた。


・・・・・・


5人の浮浪児はそれぞれの人生を得、この丘を下りていった。
家を自分たちで造る---という”あの時代”が、もう終わったことを品川房二は知っている。

品川博は、今年55歳である。
彼は、結婚をしないままこの歳になった。
時折「何か大きな仕事をする人は、その人の一番大切なものを捨てろ」というシュバイツアーのことばを思い出すことがある。
シュバイツアーは音楽を捨てた。
自分は、気がついてみると結婚を捨てていた。



コメント (1)
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