しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

シーボルト「江戸参府旅行日記」下関から室津への旅(下関~日比)

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「江戸参府紀行」 シーボルト 東洋文庫  昭和42年発行


三 下関から室への旅(下関~日比)


1826年(文政9)
3月2日(旧1月24日)


8時ごろ、西風を受けて出帆し、潮流に助けられ正午ごろ太陽の高度を計った。
それによると北緯33度5分にいた。
ここは多数の大小の島々が散在する内海で、豊予海峡、紀淡海峡の間の広々とした多島海を三つの海域に分けている。
周防灘、播磨灘、水島灘。水島というのは甘い水(淡水)の出る島の意味である。
この海域を形成している海岸の地形ははなはだ不規則で、外国船にとってはこの迷路を通って危険な航海をすることは今日まで不可能であった。
けれども日本の船乗りはこの水路に精通しているので、すっかり任せておいても安心である。
内海の東端にはこの国最大の商業都市大坂が位する。



(周防大島)


向島(防府市)野島・笠戸島のかたわらを過ぎ、夕方に上関と室津の間の海峡を通過した。
屋代島の牛の首埼と沖家室の間に錨を降ろす。



3月3日(旧1月25日)

寒暖計はF38度を示す。
船は停泊したまま。風は烈しさをまし、夕方にはたくさんの錨を降ろし船が流されないようにしなければならなかった。



3月4日(旧1月26日)

相変わらず向かい風。
朝の時間を経度の測定と方位の測量に利用することとし、9時過ぎ屋代島の牛の首崎に上陸する。
化石となった象の臼歯の、よく原型をとどめたものを発見した。小豆島ではしばしば化石した骨、疑いもなくマンモス象の骨が発見されるということである。
使節はわれわれが学問的な調査を行うために彼のもとから離れると、いつものようにイライラしだした。





出帆し、東島、怒和島の間を東北東の進路を通って御手洗へ向かった。



(正面に怒和島)




(倉橋島鹿島の段々畑)





(伯方島、正面は岩城島)





(大三島・宮浦))




船頭は引き潮の流れにあい、しかも暗闇の中で、船が浅瀬や岩礁に衝突するのを恐れて、
海岸近くの三原の沖に10時ごろ、錨を降ろした。




(生口島から三原港を望む)




(浮城・備後三原城)


(三原・糸崎から前方に佐木島や因島が重なる)






3月5日(旧1月27)



(三原港の前にある宿根島)


夜明けとともに帆を上げ、9時ごろには水島灘(今の燧灘)という広い水域に出た。



(弓削島 愛媛県越智郡)



(弓削島から見る因島=広島県尾道市)






左舷には田島、右舷には弓削島が見える。


(田島・横島 福山市内海町)



(田島・横島 福山市内海町)



まっすぐ箱の崎まで向かって正午まで進み、そこで晴れ渡った空のもとで太陽の高度を測った。北緯34度16分。
飯野山(讃岐富士)は南77度東であった。



(内海大橋=福山市)


(田島から見る内海大橋)






今朝早く備後領の南端の阿伏兎岬を通過した。
岬の上には観音を祀った磐台寺があり、岩の上に建っている。
灯台に似た寺の塔が遠くから見える。
船乗りや旅行者はここで仏前に供え物をそなえ仏の加護を願うのが常で、
供え物は普通12の小銭で、信者はそれを小さい板切れに結んで経文を唱えながら海中に投げる。
このおびただしい供え物を僧侶が雇っている漁師が拾い上げるのである。


(阿伏兎観音)







なお巡礼地としていっそう有名なのは、向かいの四国の琴平山にある金刀比羅宮である。
 


(金刀比羅宮参道)


(金刀比羅宮)


琴平山は孤立した円錐形の山で、讃岐の内陸数里のところにある。
山は遠く海上から見える。
神殿および、およそこの山の全域が魅するような美しさだという。
船人は金毘羅権現におのれの生命をあずけ、お供え物をするが、普通は小さい酒樽といくらかの銭で、これを海中に投げるのである。
漁師や農民は、投げ込まれた供え物を海中や海岸で見つけると、直ちに社へ持って行き、
その代償として免罪符をもらう。
これを着服すると神罰を被る恐れがあるので、彼らは良心的にふるまうのである。






(多度津沖)



東西に向かって引き潮の流れが異常な速さと強さを持っている。
満ち潮は水島灘では外側よりもいちじるしく高位を示す。
すべてを経験をつんだ思慮深い日本の船乗りは、たびたび心ひそかに感心したものである。


針路を白石にとり、それから塩飽島に向きを変える。



(笠岡市北木島)



その島は七つあるので普通七島(ななしま)と呼ばれている。




(香川県多度津郡 佐柳島)






(坂出市沙弥島)





引き潮は好都合であった。
日暮れと共に日比の近くに錨を降ろした。


(日比港 岡山県玉野市)




・・・・



この内海の航海を始めて以来、われわれは日本におけるこれまでの滞在中もっとも楽しみの多い日々を送った。
船が向きをかえるたびに魅するような美しい島々の眺めがあらわれた。
島や岩島の間に見え隠れする日本と四国の海岸の景色は驚くばかりで---
ある時は緑の畑と黄金色の花咲くアブラナ畑の低い丘に農家や漁村が活気を与え、
ある時は切り立った岩壁に滝がかかり、また常緑の森の彼方に大名の城の天守閣がそびえ、その地方を飾る無数の神社仏閣が見える。
はるか彼方には南と北に山が天界との境を描いている。
すぐ近くを過ぎてゆくいくつかの島は少なからず目を引く光景を呈している。

温和な島国の気候と千年の努力が、これを野趣の溢れたロマンチックな庭園に作り変えたのである。

常緑の葉をもった樹木の多数の種類、ことにスギ・マツは日本の特徴ある植物であり、
早く花を開く樹木や灌木はこの地方に常春の外観を与えている。

気温はほんとうに温和であり、海上の活発な船の行き来は美しい自然に劣らぬほどわれわれを楽しませてくれた。
数百の商船に出合ったし、数え切れない漁船は、昼間は楽しげな舟歌で活気をみなぎらせ、夜は漁火で海を照らしていた。
随行の日本人はいつも上機嫌だった。
これは社交的な同居生活の薬味であり、旅の幸さの強壮剤であった。





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ジーボルト「江戸参府紀行」序文

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ジーボルト「江戸参府紀行」 斎藤信・訳  平凡社  昭和42年発行

1826年の江戸参府紀行の序

この国の地理・住民の言語・彼らの風俗・習慣を、私は教養ある日本人との交際を通じて調べておいた。
私自身の小旅行は長崎の近郊を越えた程度に過ぎなかった。
遠い国々の事情に通じている医師たちが私にその地方の天産物を教えてくれた。
彼らは自然科学や医学について私の講義を受けようとして、日本の各地からやってきて博物標本や動植物の書物などを贈った。
数百名の患者は、珍しい博物標本を差し出した。
数人の猟師を鳥や獣を捕えるために雇い入れていたし、昆虫採集の目的で他の人々を仕込んでおいた。





出島では植物園を造ったが、私の多方面にわたる友好関係のおかげで、約千種の日本と支那の植物を数えるにいたった。
また蝦夷や千島についてもある高貴な日本人を通じて、博物学および民俗学上の資料の貴重なコレクションを手に入れた。
私の見聞をひろめることが、いまや来るべき江戸旅行の主目的であった。
けれどもこの旅行には種々の制約があって、自由に研究し、その領域を広げることは期待できなかったから、
使節派遣が終わったのち、なお江戸に滞在し、
将軍家の医師に博物学や医学を教えることを口実にして、
状況次第で日本の国内を旅行しようという計画をたてていた。

私の計画を受けた蘭印政庁は、これに同意し、滞在費を含め強力に支援するようこのたびの使節に依頼してきた。

オランダの船舶は毎年わずか2回だけ貿易のために寄港することを許されていた。
12月にバタビアに出帆して、単調な静けさを出島の住民はとりもどす。
そうゆう時期江戸旅行の準備にとりかかった。



(江戸での宿舎、長崎屋)


先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、
公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。
この旅行で重要な役割を演じ、現金出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行う大通詞として末永甚右衛門がわれわれに同行した。
立派な教養と学問的知識をもっていた。
賢明で悪知恵もあった。少年時代に通詞の生活に入り、オランダの習慣に馴れていて、オランダ語を上手に話したり書いたりした。
長崎奉行の信頼も厚かった。

日本人の同伴者のうち最も身分の高い人物は給人で、御番所衆とも呼ばれ、出島では上級と言う名で知られていた。



使節は新式の家具や立派な食器類や銀器やガラス器を準備し、
私は、バロメーター・高度測定用のトリチェリのガラス管・温度計および寒暖計のほかに、
ロンドン製のクロノメーター・副尺がついて15秒をよみとることができる六分儀・精巧な水準器と羅針儀・電気治療器・組立式顕微鏡などを持っていった。
あとは小型のピアノ。
携帯用の薬品と普通の外科の手術道具をそれに加えた。


・・・・・・



蹄鉄は
日本では使用されていない。
牛馬の蹄には稲わらで作った靴をはかせるが、街道の至るところで旅行者用と同じように買えるよう吊るしてある。



(東海道53次・三島)



運搬人は、
荷を担ぐものと、駕籠舁(かごかき)がある。
彼らの鍛錬と忍耐と敏捷さには驚くが、彼らの節制を重んずるのは称賛に値する。
荷を担ぐ仕事には下層階級出で力強い男子が選ばれる。
駕籠を担ぐには相当の訓練がいる。
駕籠舁は数日にわたって40~60キロと歩かねばならない。
両脚は藁靴をはき、一種のゲートルをつけている。
長い杖を持つ。
身分の高い人々の駕籠舁も同じ。


街道
一般に道幅の広い街道には地形の許す限り両側にモミ・スギなどの陰の多い樹木を植えている。
街道はその領地の大名の費用で維持され、代官や庄屋の監督下にある。
大名行列がたびたび行き合うので、秩序を保つため、各々は道の左側にいて他の者には右側を行かせる。

一里づつ道の両側に小さな丘があり一里塚と呼ばれる。
不浄だと排斤されているエタという階層のものが住んでいる区間は、たとえ数時間を要する距離でも、距離には数えられない。


(舞阪の松並木)






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「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトの日本派遣

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「ケンペルとシーボルト」  松井洋子著 山川出版社 2010年発行

シーボルトの日本派遣

シーボルトはドイツで生まれた。祖父も父も医者の医者一家。
1815年大学に入学し、
医学に加え
化学・解剖学・薬学・物理学・植物学・人類学などを学んだという。
1822年「軍医としてオランダで勤務に就き、東インド会社の植民地へ行く」決心をする。
その理由は、
「博物学研究の特別な愛好心、この偏愛こそ小生を他大陸へ遠征させる決心をさせた」と語っている。

当初ブラジルへ赴く、という交渉も受けており、どこであれ学問的に未知の土地で研究を行うことが目的だったと思われる。
1822年7月ハーグへ到着。
オランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任じられた。26歳の医師には破格の待遇であった。
1823年2月バタビアに到着した。4月日本勤務を命じられた。
1823年8月11日長崎湾に入港した。





日本での活動

本来は商館駐在員の健康維持のためのものであったが、
彼の博物学研究に資するため、日本人に対する積極的医療行為を開始した。
11月にはすでに人脈を生かし、オランダ語で博物学と医学を教え始めている。
1824年には長崎市中に出張して教育を許され、郊外の鳴滝に家屋を購入し門人を寄宿させた。
効果が目に見えやすい医療を武器として彼を売り込んでいった。
出島の外での医療と教育が、とくに医師たちの前での手術や処方の臨床医療教育が彼への評価を高めた。

当初よりの使命であり関心事であった、博物学的調査、具体的には動物学・鉱物などの収集を手掛けた。
出島に植物園を開いた。
バタビアから、栽培が有益と思われるすべての種子や苗木を送るよう要請され、
植物園で育てた苗が発送された。


1826年、江戸参府を好機に、
幕府に江戸への長期滞在を認めさせ、日本について総合的調査を展開する計画を示し、承認と財政措置を求めている。

シーボルトは100年前の先人より、各段にめぐまれた条件にあった。
蘭学の発展は、オランダ語で彼と学問的な話をできる人々を準備しており、
その人々は彼の持つ医学を中心とする西洋の学問伝授を望んでいた。

ケンペルは、みずからの手で多くのスケッチを残しているが、
シーボルトには、彼のカメラ代わりになる画家がいた。
町絵師川原慶賀は日本人の生活、道具、風景を細密描写した。







江戸参府旅行

1790年以降、江戸参府は4年に1度に変更されていた。
シーボルトは2年半待たねばならなかった。

江戸での滞在を自分だけ延長することを画策していた。
一行の宿舎には、門人たちが多数の動植物の標本やスケッチを持参して訪ねてきた。
4月16日特別な日、最上徳内との出会いがあった。
徳内は数度にわたってシーボルトを訪問し、樺太探検の様子や、アイヌの風俗、蝦夷語、地理などを話し多くの情報を与えた。
学問的関心を同じくする者が、出会い、語り合う喜びは双方の胸に響くものであったい違いない。
天文方高橋景保との出会いは、のちに二人の運命を変えるものになった。
間宮林蔵とも会っていた。
江戸滞在中に訪ねてきた学者たちは、
将軍侍医の桂川甫賢・土生玄碩・栗本瑞見・津山藩医宇田川容庵・蘭学の大槻玄沢など、枚挙に暇がない。


江戸滞在延長計画

シーボルトは早い時期から、江戸での滞在を延長し、さらにあわよくば各地を旅行する許可を得たいと考え、バタビア政庁から承認されていた。
江戸滞在の延長は得られなかったが
復路では何軒もの植木屋を訪問して、品種改良や移植などの情報も得た。




シーボルト事件と国外追放

1827年7月、日本から帰還が決まった。
1828年の船で帰国の準備を進めていた。
間宮林蔵の勘定奉行に私物を提出し、外国人との私的文通が問題となり、
シーボルトは出島で厳しい監視のもとにおかれた。
1829年12月30日、シーボルトは日本を離れた。
『日本』の記述によれば、
シーボルトは収集品のうち多くを毎年の船ですでに送っており、
また没収の前に、もっとも重要な地図類などを夜を徹して写したという。
シーボルトのコレクションはさほど大きな影響は受けなかったとされる。



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