しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

”里庄町の山男”  徴兵忌避で逃避12年

2021年10月12日 | 昭和26年~30年
里庄の山中に12年間、ドロボーしながら隠れ住んだ人がいたとは・・・今日まで、まったく知らなかった。


(里庄町・椿の丘公園から見る”竜王山” 2020.7.27)






「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行


徴兵忌避で逃避12年

岡山県の片田舎の農家に盗みに入り捕まった”山男”の話。
---39才のこの男、小さい時から大の兵隊嫌い。
召集令状の赤紙が来た。しかし、どうしても軍隊に入る気にはなれず、山にこもる。
それから12年。

「山男が出る」といううわさが、岡山県浅口郡里庄村の村民たちの間で、
いつのころからか話題になっていた。
ある家では、十数回も米や、塩や干物が盗まれる。
村のはずれの竜王山の山裾の民家は、かたっぱしから被害を受けた。
盗難届の書類は厚さ10センチ余りも積み重なってくる。
これは、流れ者のルンペンの仕業だろうと思っていた、だが、だれ一人として、
その山男なるものの姿を見たものはいない。

昭和30年4月10日の午前3時ごろ、山を降り、田や畑の中を過ぎて、一人の男が里庄村新庄の安田賢一さん方の、炊事場からタヌキのようにしのび込んだ。
板の間に置いてあったオケに入れた一斗あまりの米を、担ぎ出そうとした瞬間「泥棒や」と叫んだ。
オケをもって泥棒は畑まで逃げ、生米をかじっていたところへ、若者が追っかけ、わけなく捕まえた。

駐在の巡査が呼ばれた。
昨年の9月に一度、スイカ泥棒をして捕まったのが、この男だったが、
その時は、そのまま釈放した。
夜が明けて、男は玉野警察所(←玉島と思える・管理人)へ送られた。

取調べが始まって住所を聞くと、竜王山の山中という。
昭和18年から今まで、ずっと竜王山にとじこもっていたのだという。
うわさされていた山男の正体は確かにこの男ときまった。

男の本籍は、兵庫県美方郡射添村で、岸光夫(39)という。
射添小学校をおえて大阪へ出た。


兵隊嫌い。
兵隊検査を浮けたとき、彼はしょうゆをガブガブ飲んだ。
おかげで熱が出たし、背も小さいので、運よく丙種となった。
住友製鋼に入って荷揚げ人足のようなことをやっていたが、赤紙が来たのである。
仕方なしに仲間から餞別をもらい、大社行の汽車に乗った。
故郷の駅は香住だが、大社まで行ってしまい、8~9日遊び歩いているうち金もなくなった。
伯備線経由で岡山の笠岡へ行った。
笠岡から里庄村の夜の道をあてもなく歩いた。
里庄村には思い出がある。
里庄村のある家の酒男にやとわれたことがある。
歩きつづけ、山のなかへ入ってしまった。

昼間は岩かげに隠れたり、山を歩いたり、そして夜になると、山を降り、農具小屋などで眠った。
最初は畑泥棒を専門にして、芋をとった。
芋がなくなると桃の季節がくる。次に柿、大根。自然は人間を餓死させない。
ワナをかけるとウサギやタヌキもよくかかって食べた。
そのうち欲が出て、
米が食いたくなり、山すその人家からかっぱらいをはじめるようになった。
ついでに着るものも失敬した。
泥棒ついでに本、雑誌、新聞は必ず手に入れた。

一年もすると、もう何も考えなくなった。頭はからっぽ。
着るものの事、食べものの事、それだけを本能的に考えていた。
終戦はむろん知っていた。
しかし何十回もコソ泥をやっていたので山を降りる気にはなれなかった。

彼は大のきれい好きで、毎日行水、頭の毛はカミソリで剃っていた。
山頂の彼の「貯蔵庫」には、地下足袋、しょうゆ瓶、マッチ小箱、せっけん、軍隊服、ワイシャツ、手ぬぐい、パンツ、靴下、下駄、塩、たくあん、高野豆腐など。

「つかまったのは欲張りすぎ、もっと遠くまで逃げてしまえばよかったんです。
そんでも、
刑を終えたら、真面目に働きます」
とも、述懐するのである。




大阪編集部・昭和30年4月24日


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9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した

2021年10月12日 | 昭和21年~25年
7~8年前ある旅行会社のツアーで3日間同じだった、広島市の方(中年女性)から”私の特技”的な自慢話を聞いたことがある。
彼女の自慢は「NHKのど自慢」に出場するのが特技だというのである。
出場するためには”秘訣”がある。
まず書類応募の際、歌う”曲選び”の秘訣、その曲を歌う理由の秘訣。
予選では客受けする衣装や踊りパフォーマンスの秘訣、話題の秘訣。
それができれば、ほぼ本番出場はOKであるそうだ。

今から76年前、NHKのど自慢が始まり、その年の秋
9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した。

・・・


「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行

観客席には、復員服の男や、モンペ姿の女たちが、ぎっしりひしめき合っていた。
そこは、横浜市伊勢佐木町に近い焼けビルの二階で、
場末の映画館を思わせる部屋の正面には、急ごしらえの、
粗削りの杉のステージが取り付けられていた。


「はい、次の方、お名前は」
「加藤和枝、九つ、長崎物語」

小っちゃななくせに、まるで大人の着るような裾の長い、
真っ赤なドレスを着た少女が現れた。
おでこの広い、鼻もちょっと上を向いて目だけがグリグリと大きい愛嬌のある子だった。
伴奏は天知真佐雄。
合図とともにこの子は歌った。


赤い花ならマンジュシャゲ
オランダ屋敷に・・・・
子供と思われぬサビのよく利いた声。

満場陶然たる中に、この子はすでに一曲を全部歌い終わってしまっていたが、
審査席からは何の合図もない。
島野アナウンサーも中ぶらりんの面持ちで、
「もう一曲、ハイ、何か」
と促した。
次にこの子が歌ったのは「愛染かつら」であった。

審査席では丸山・三枝両委員が複雑な表情をたたえながら顔を見合わせている。
その眼は・・・悪達者・子供らしくない・非教育的・・・ということを互いにすばやく語り合い、ついに丸山氏の手は横に振られた。

「はい、結構です。では次の方・・・」

・・・・・



美空ひばりが、のど自慢で鐘三つでなかったのは、よく知られた話だが、
ついでながら、
北島三郎は鐘二つ、
五木ひろしは鐘三つ、
島倉千代子は鐘二つ、
だったそうだ。








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