しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトが来た時の鞆

2021年10月04日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
文政9年(1826)にシーボルトが鞆に来た時、あったものとなかったもの。

撮影日・2021年10月2日


この眺めは、江戸時代も今も変わらない。






「大波止」は、寛政3年(1791)に出来た。文化8年に大規模修理と延長が完成。






「船番所」は、場所は今と変わらないが、残っているのは石段だけだそうだ。







シーボルトが日記に書き残した、医王寺。









鞆の「常夜灯」。

残念ながらシーボルトが帰国した後の、安政6年(1859)年に寄進されたもの。
雁木は文化8年(1811)に完成している。







朝鮮通信使が”日東第一形勝”と賞嘆したのは1711年、
禅福寺「対潮楼」は、元禄年間にできたそうだ。




鞆の町並みは魅力的で国の重伝建に指定されている。
潮待ちの湊として、
”1000年に及ぶ繁栄”が昭和初期までつづいた。


※福山市教育委員会「鞆町並みの魅力」一部引用





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シーボルト「江戸参府旅行日記」大坂から長崎への帰り旅・鞆

2021年10月04日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「江戸参府紀行」 シーボルト 東洋文庫  昭和42年発行

十一・大坂から長崎への帰り旅



1826年(文政9)
6月23日(旧5月18日)



(鞆グリーンラインから)




朝、引き舟にひかれて鞆の港にはいる。
正午ごろ上陸。


(鞆港の雁木)




たいへんきれいな町並みで、船の出入りがあり活気にあふれた町である。
たくさんの小売店があるが、大部分は船員用の品物や蓆・網・帽子・草履などの藁製品である。



(鞆の町)





東北の側にある港は、概して小さい日本船には都合の良い停泊地で、北側にはたいへん頑丈な堤防、西南の側は町と高い山があって港を守っている。
港外は三尋の深さであるが、港内はもっと浅い。
けれども約半マイル離れた所に好条件で錨を降ろすことができる。



(鞆港・いろは丸記念館前)





町の長さは15町で、手入れの行き届いた住居は裕福なことを物語っている。
住民は数千にのぼるようである。


(鞆城跡)


(鞆港焚場)





われわれは何軒かの家を訪ねたが、心から迎えてくれた。
ある寺に行ったが、その場所は美しさとひらけた眺望で有名であったし、
また遭難した朝鮮人が滞在したところとしても少なからず有名であった。




(日東第一形勝の福禅寺)



(鞆渡船場)








私は町の郊外にある医王寺に出かけた。
険しい山を登ると、山の背に寺がある。
この山の植物群はカシ・コナラ・マツ・クリ・エノキ・ツツジ・グミ・ハゼ・・。



(医王寺)





夕方船に戻り、夜半に30隻の引き船で港外に出る。



(仙酔島)



(阿伏兎観音)





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