盧溝橋事件後、大々的に全国民に普及させようとした大日本帝国政府、マスコミ、レコード会社による国策歌謡曲。
発狂した国家が、国民をも発狂にまきこもうとした流行歌。
村長さんや校長先生がいる前で歌う歌。
現代の人が歌詞を読めば、夜郎自大ぶりに頭がくらくらする。
親の世代は、(他国の話でなく日本)市中でこうゆう歌を唄わせれられていた。
愛国行進曲
〽
見よ東海の空あけて旭日高く輝けば
天地の正気(せいき)溌剌と希望は躍る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の 朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌無欠(きんおうむけつ) 揺るぎなき
わが日本の誇りなれ
〽
起(た)て一系の大君(おおきみ)を光と永久に戴きて
臣民我等皆共に御稜威(みいつ)に副はむ大使命
往け八紘を 宇(いえ)となし
四海(しかい)の人を導きて 正しき平和うち建てむ
理想は花と咲き薫る
〽
いま幾度か我が上に試練の嵐 哮(たけ)るとも
断固と守れその正義進まん道は一つのみ
ああ悠遠(ゆうえん)の神代より
轟く歩調うけつぎて 大行進の往く彼方
皇国つねに栄あれ
~公募戦時歌謡の氾濫~
新聞社はこぞって、戦争を参加する歌を募集する。
愛国行進曲は、事変が起こった時内閣から
大日本帝国の進むべき道と、国民の士気を高揚する目的で、新作を企画した。
歌詞公募には、一ヶ月足らずで5万7千の応募があった。
審査には,佐佐木信綱、北原白秋といった一流の詩人が当たり、
当選歌詞には
「八紘一宇」だの「大八洲」天皇の「御稜威」といった軍国日本の御題目を折り込むよう示唆されていた。
佐佐木信綱はストレートに入れてよしとする肯定派だったが、天成の詩人・北原白秋は歌だから詩的にいくべきだと主張し意見が対立。
結局、佐佐木の意見が通り、わずか一、二行を残した以外、原作の影も形も消し飛んだ”第二の国家”の誕生となった。
補作された「愛国行進曲」に九千五百の曲が応募され、山田耕作、信時潔、堀内敬三らの厳正な審査で退役海軍軍楽長が入選した。
内閣のお墨付きを受け、レコード界初の全社競争を強いられ、各社は看板歌手を起用して吹きこみががなされた。
情報部挙げての宣伝も行き届き、当時として延べ百万枚の記録的大ヒットとなった。
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信 展望社 2012年発行
愛国行進曲
昭和13年4月1日、国家総動員法が公布。
この法律によって、必要となったら議会を通さず勅令ひとつで国家総動員業務に就労させるのが自由になった。
〽
見よ 東海の空明けて・・・
旗行列の時に歌うのも『愛国行進曲』、
足並みそろえての行進にも『愛国行進曲』
戦時下の教育は鍛錬ということがしきりにいわれ、
背の低い子ども、体の弱い子どもは、いやでも影のうすい存在になってしまった。
学校から配布される『児童手帳』が、『学級手帳』に代わった。
一頁目に、「私たちの誓」の欄が新たに加えられた。
一、私たちは常に日本人に生まれたことを喜び、天皇陛下のおんためにつとめます。
一、私たちは常に父母に感謝し、よく言ひつけを守り、親を安心させます。
一、私達は常に人を敬ひ、どなたにも親切をつくします。
一、私達は常に丈夫なからだと、強い心をきたへます。
一、私達は常に〇〇小学校の良い生徒であることを思ひ、よく先生の教へを守ります。
「太平洋戦争下の学校生活」 岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。
発狂した国家が、国民をも発狂にまきこもうとした流行歌。
村長さんや校長先生がいる前で歌う歌。
現代の人が歌詞を読めば、夜郎自大ぶりに頭がくらくらする。
親の世代は、(他国の話でなく日本)市中でこうゆう歌を唄わせれられていた。
愛国行進曲
〽
見よ東海の空あけて旭日高く輝けば
天地の正気(せいき)溌剌と希望は躍る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の 朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌無欠(きんおうむけつ) 揺るぎなき
わが日本の誇りなれ
〽
起(た)て一系の大君(おおきみ)を光と永久に戴きて
臣民我等皆共に御稜威(みいつ)に副はむ大使命
往け八紘を 宇(いえ)となし
四海(しかい)の人を導きて 正しき平和うち建てむ
理想は花と咲き薫る
〽
いま幾度か我が上に試練の嵐 哮(たけ)るとも
断固と守れその正義進まん道は一つのみ
ああ悠遠(ゆうえん)の神代より
轟く歩調うけつぎて 大行進の往く彼方
皇国つねに栄あれ
~公募戦時歌謡の氾濫~
新聞社はこぞって、戦争を参加する歌を募集する。
愛国行進曲は、事変が起こった時内閣から
大日本帝国の進むべき道と、国民の士気を高揚する目的で、新作を企画した。
歌詞公募には、一ヶ月足らずで5万7千の応募があった。
審査には,佐佐木信綱、北原白秋といった一流の詩人が当たり、
当選歌詞には
「八紘一宇」だの「大八洲」天皇の「御稜威」といった軍国日本の御題目を折り込むよう示唆されていた。
佐佐木信綱はストレートに入れてよしとする肯定派だったが、天成の詩人・北原白秋は歌だから詩的にいくべきだと主張し意見が対立。
結局、佐佐木の意見が通り、わずか一、二行を残した以外、原作の影も形も消し飛んだ”第二の国家”の誕生となった。
補作された「愛国行進曲」に九千五百の曲が応募され、山田耕作、信時潔、堀内敬三らの厳正な審査で退役海軍軍楽長が入選した。
内閣のお墨付きを受け、レコード界初の全社競争を強いられ、各社は看板歌手を起用して吹きこみががなされた。
情報部挙げての宣伝も行き届き、当時として延べ百万枚の記録的大ヒットとなった。
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信 展望社 2012年発行
愛国行進曲
昭和13年4月1日、国家総動員法が公布。
この法律によって、必要となったら議会を通さず勅令ひとつで国家総動員業務に就労させるのが自由になった。
〽
見よ 東海の空明けて・・・
旗行列の時に歌うのも『愛国行進曲』、
足並みそろえての行進にも『愛国行進曲』
戦時下の教育は鍛錬ということがしきりにいわれ、
背の低い子ども、体の弱い子どもは、いやでも影のうすい存在になってしまった。
学校から配布される『児童手帳』が、『学級手帳』に代わった。
一頁目に、「私たちの誓」の欄が新たに加えられた。
一、私たちは常に日本人に生まれたことを喜び、天皇陛下のおんためにつとめます。
一、私たちは常に父母に感謝し、よく言ひつけを守り、親を安心させます。
一、私達は常に人を敬ひ、どなたにも親切をつくします。
一、私達は常に丈夫なからだと、強い心をきたへます。
一、私達は常に〇〇小学校の良い生徒であることを思ひ、よく先生の教へを守ります。
「太平洋戦争下の学校生活」 岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。
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