昭和12年、盧溝橋事件にはじまる日中戦争の原因は、多くの学者や政治家や旧軍人がいろんな説を述べているが、
いまひとつはっきりしない。
管理人が思うに、日中戦争は、
中国が「日本のいう事をきかない」ので、膺懲した、という単純な原因のように思える。
暴支膺懲(ぼうしようちょう)
日本の歴史 第15巻」 大門正克著 小学館 2009年発行
昭和12年7月7日、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した。
盧溝橋事件である。
ここから長きにわたる日中戦争が続くことになる。
その前年西安事件がおき、国共内戦は停止していた。
日本の軍部は中国側の民族的抵抗を軽視し、民族的蔑視のもと華北制圧を強める。
昭和12年6月4日に国民と軍部の強い支持を得て、近衛文麿内閣が成立した。
政府は不拡大の方針をとったが、陸軍は「一撃」を加えれば中国側はたやすく屈服するとした強硬論が有力で、
政府も傾き華北へ派兵が決定された。
8月には上海でも衝突(第二次上海事件)、戦線は拡大する。
盧溝橋事件では日本は宣戦布告はせず、事変(支那事変)と位置づけた。
戦争目的は「暴戻支那の膺懲」と述べた。
「ヨーチョー」である。
9月第二次国共合作。
12月、日本軍は首都南京を占領。
捕虜を始め、一般住民が多数虐殺された。
昭和13年1月
「国民政府を相手にせず」という声明を発表。
徐州作戦、武漢・広東作戦を経て日中戦争は長期持久戦となる。
昭和13年12月、近衛首相は欧米列強による支配からアジアの解放、日満華の連帯をうたった「東亜新秩序」の建設を声明した。
これ以降、中国との戦争は東亜の平和、安定をめざすためと説明された。
昭和14年4月、近衛内閣は国家総動員法を公布した。この法により、議会の承認なしに物資や労働力など統制できるようになった。
「日本の歴史14」研秀出版 1973年発行
近衛文麿の登場
貴族院議長公爵近衛文麿が、
「国内がたがいに軍官民に対立してたたかっているのを一掃する」と、
国民の期待をになって6月4日、第一次近衛内閣を組織した。
しかし、組閣して一か月後には、日中間の全面戦争が開始された。
軍部は、西安事件以来中国に高まった抗日民族統一戦線をつぶそうと考えていた。
昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋で軍事衝突が起こった。
中国への軍事的侵略を待ち望んでいた日本軍は、ただちに中国軍にたいして攻撃を開始した。
7月28日、華北へ続々と軍隊を派遣し、中国軍にたいして総攻撃を開始した。
29日までに北京・天津および付近の要地を占領。
8月13日、海軍は上海で戦闘を始めた。
8月15日近衛首相は、
「日本は今まで我慢に我慢を重ねてきたが、もはやゆるしておけなくなった。
支那軍の乱暴で道理にはずれた行為をこらしめるために断乎たる処置をとる」
という声明を発表し、中国との全面的な戦闘開始を宣言した。
近衛内閣は、戦争はこれ以上拡大しないとたえず声明を繰りかえした。
しかし、実際は中国全土へ戦線は拡大していった。
杉山元陸相は、
日中戦争は二ヶ月で片づけると天皇に大言していたが、中国軍隊と民衆の強い抵抗の前で苦戦をつづけた。
11月5日上海の危機をきりぬけ、
12月13日、首都南京を占領した。
日本軍は近代戦史上最大といわれる大虐殺をおこなった。
虐殺された数は、
東京裁判では11万9千人とされ、エドガー・スノーによれば上海・南京の進撃中に30万人の中国民衆が殺されたといわれている。
とくに、日本軍の中国婦人にたいする暴行事件は2万件を数え、その1/3が白昼おこなわれた。
いまひとつはっきりしない。
管理人が思うに、日中戦争は、
中国が「日本のいう事をきかない」ので、膺懲した、という単純な原因のように思える。
暴支膺懲(ぼうしようちょう)
日本の歴史 第15巻」 大門正克著 小学館 2009年発行
昭和12年7月7日、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した。
盧溝橋事件である。
ここから長きにわたる日中戦争が続くことになる。
その前年西安事件がおき、国共内戦は停止していた。
日本の軍部は中国側の民族的抵抗を軽視し、民族的蔑視のもと華北制圧を強める。
昭和12年6月4日に国民と軍部の強い支持を得て、近衛文麿内閣が成立した。
政府は不拡大の方針をとったが、陸軍は「一撃」を加えれば中国側はたやすく屈服するとした強硬論が有力で、
政府も傾き華北へ派兵が決定された。
8月には上海でも衝突(第二次上海事件)、戦線は拡大する。
盧溝橋事件では日本は宣戦布告はせず、事変(支那事変)と位置づけた。
戦争目的は「暴戻支那の膺懲」と述べた。
「ヨーチョー」である。
9月第二次国共合作。
12月、日本軍は首都南京を占領。
捕虜を始め、一般住民が多数虐殺された。
昭和13年1月
「国民政府を相手にせず」という声明を発表。
徐州作戦、武漢・広東作戦を経て日中戦争は長期持久戦となる。
昭和13年12月、近衛首相は欧米列強による支配からアジアの解放、日満華の連帯をうたった「東亜新秩序」の建設を声明した。
これ以降、中国との戦争は東亜の平和、安定をめざすためと説明された。
昭和14年4月、近衛内閣は国家総動員法を公布した。この法により、議会の承認なしに物資や労働力など統制できるようになった。
「日本の歴史14」研秀出版 1973年発行
近衛文麿の登場
貴族院議長公爵近衛文麿が、
「国内がたがいに軍官民に対立してたたかっているのを一掃する」と、
国民の期待をになって6月4日、第一次近衛内閣を組織した。
しかし、組閣して一か月後には、日中間の全面戦争が開始された。
軍部は、西安事件以来中国に高まった抗日民族統一戦線をつぶそうと考えていた。
昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋で軍事衝突が起こった。
中国への軍事的侵略を待ち望んでいた日本軍は、ただちに中国軍にたいして攻撃を開始した。
7月28日、華北へ続々と軍隊を派遣し、中国軍にたいして総攻撃を開始した。
29日までに北京・天津および付近の要地を占領。
8月13日、海軍は上海で戦闘を始めた。
8月15日近衛首相は、
「日本は今まで我慢に我慢を重ねてきたが、もはやゆるしておけなくなった。
支那軍の乱暴で道理にはずれた行為をこらしめるために断乎たる処置をとる」
という声明を発表し、中国との全面的な戦闘開始を宣言した。
近衛内閣は、戦争はこれ以上拡大しないとたえず声明を繰りかえした。
しかし、実際は中国全土へ戦線は拡大していった。
杉山元陸相は、
日中戦争は二ヶ月で片づけると天皇に大言していたが、中国軍隊と民衆の強い抵抗の前で苦戦をつづけた。
11月5日上海の危機をきりぬけ、
12月13日、首都南京を占領した。
日本軍は近代戦史上最大といわれる大虐殺をおこなった。
虐殺された数は、
東京裁判では11万9千人とされ、エドガー・スノーによれば上海・南京の進撃中に30万人の中国民衆が殺されたといわれている。
とくに、日本軍の中国婦人にたいする暴行事件は2万件を数え、その1/3が白昼おこなわれた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます