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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

お家断絶① 備中松山藩5万石 水谷家

2021年07月04日 | 江戸~明治
備中松山藩水谷家
改易日・寛永18年(1641)



江戸時代の武士は”お家断絶”となると、藩の武士全員が無職となり、
地位も禄も家屋敷もなくしてしまう。
しかも、ほとんどの場合が予測不能な急な出来事。
武士はけっこう辛いところがある。イヤ辛すぎる。

吉備の国では、
①備中の水谷家、
②美作の森家、
③備後の水野家、
がお家断絶になった。(早い順、森家と水野家はほぼ同時)

ちょっとだけ調べてみた。





備中松山藩は水谷家が廃絶の際、赤穂藩が城の受け取り大名になり、今も登城道のほぼ中間点に「大石内蔵助の休み石」がある。
管理人も松山城に行くときは、その石に座り、ひと休みする。

水谷家は城の処理が終わってから、領民がたいへんだったようで
検地をしたら5万石から11万国になり、農民は”生かさぬように、殺さぬように”を地で行く状態になった。


。。。。。。

「江戸大名のお引っ越し」 白峰旬 新人物ブックス  2010年発行


改易大名の居城を受け取るのは、
その居城を軍事的に接収して武装解除することを意味している。

具体的には、
上使を派遣して監督業務にあたらせる、
城取り大名を派遣して臨戦体制下で城を受け取り、
次の城主が来るまで在番大名に城の在番をさせる。









「高梁市史上巻」  高梁市  平成16年発行     

水谷氏の改易

勝隆・勝宗の2代47年間は、近世大名として藩政の基礎が完成し、領内の経済体制も確立した時期であり、
勝宗の晩年は財政的にも経済的にも非常に豊かな時代であったといわれる。
3代勝美の治世はわずか5年に過ぎなかったが、土木事業を大いに興し民政に心を用いた。
元禄6年(1693)勝美は大病にのぞみ、一族の勝晴を養子と定めて死去したが、
勝美もまた痘瘡を病んで翌11月、家督相続をしないうちに13歳で早世した。
そこで勝美の弟をと幕府に願い出たが許されず、徐封となり水谷家は断絶した。

水谷家は、祖先の勲功により勝美の弟が備中国川上郡のうちに3.000石を与えられて寄合に列せられ、
布賀に陣屋を置いて幕末にいたっている。


元禄6年12月松山収城使を命ぜられた播州赤穂藩主浅野長矩は、老中土屋正直の指図を仰ぎ、
掘利安・駒井正春の両目付と諸事打ち合わせ、翌7年1月22日赤穂から松山へ先発させた。

2月18日家老大石内蔵助は赤穂を出発、翌日松山へ到着。
浅野長矩は自ら本隊を率いて翌19日、赤穂を出発。
水谷家から役向きの者が出迎えた。

到着した翌日高札を建てた。
一、家中のやから今日より30日以内に引き払うべきこと。

城引き渡しは23日午後と決定されている。
大石内蔵助は水谷藩家老と会見、折衝、昼時には城地の授受が完全に終わった。
内蔵助は名代として、約1年半在番した。
この収城に、赤穂藩から繰り出された人数は大変なもので、その中には後年赤穂義士とうたわれた
不破和衛門、武林唯七、神崎弥五郎らがある。

旧水谷領を収公した幕府は、赤穂藩主浅野長矩を在番として松山の城地を守備させ、
代官を領内の民政をさせ、
姫路藩主本多忠国に松山領の検地を命じた。






この検地は旧水谷領の農民にとっては、その浮沈に関する大事件であった。
松山領から7~8人の庄屋を姫路に招き、領内の事情を、特に土地台帳について詳細に問いただした。
姫路藩では検地総奉行以下諸役人が姫路を出発。
庄屋・組頭に
村々から検地の案内人を選定して差し出させ、そのうちから姫路藩で人物を選び、
その案内人から誓紙を取って、各村一切の田畑の位付をした帳面と田畑の反別・位付などの従前のものの書付を差し出させた。
検地前に田の水を干しておくこと、
検地現場へは案内人と地主以外の者は出て騒がぬよう村中で堅く申し合わせをしておくこと。

検地は総奉行1人、元締2人、大横目2人、検地奉行3人、竿先の役人侍35人、位付役侍3人、領内庄屋3人、
勘定頭2人、勘定の者19人、医師3人、右筆3人、大工頭1人、納戸役1人、勝手方賄人4人、
徒目付16人、絵師1人、足軽150人ほど、中間200人ほど、総計約450人があたった。
検地の組は2手に分けた。12月には大体終わった。

田・畑は上々田・上田・中田・下田・下々田と5段階に等位を付けられた。

旧水谷領新検の結果に関し、ある哲多郡庄屋覚書によると、
元禄七年、御検地年の事なり、
松山領分御検地を始め、播州姫路本多中務大輔様仰せつけらる。
古高5万石の所
新高11万619石に成り候。

検地結果を知った農民代表は姫路に出かけ、検地再検討を陳情した。
翻意を幕府に取り次ぐよう訴訟を起こしたが、取次ぎをことわられた。
代官にも嘆願したが、
「百姓どもの願意もっともに思う、委細口上書を差し、そのうえで下知を待つように」
さっそく口上書を差し出したが音沙汰がない。
このうえは「とかく乞食仕りながらも御江戸に罷り下り」と嘆願するほかないと決心し、
領内の庄屋が総代となって江戸に下り、直訴に及ぼうと決心した。
その江戸下りを新任の藩主安藤重博に嘆願した。
「恐れながら」に始まる長文の嘆訴状は、当時における松山領民の悲惨な生活と苦哀を知ることができる貴重な資料である。










撮影日・2019年5月15日

              ・・・・・・・・・

【つづく】お家断絶②作州津山藩森家

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記事明治17年 茂平堤防決壊(宮ノ崎まで浸水)の記事・記録その④

2021年06月28日 | 江戸~明治
山陽新聞に水島の決壊記事が載った。
記事を読むと140年前の、茂平の先人たちが体験した恐怖が蘇るようだ。

・・・・・・・





      2021年6月18日  山陽新聞・文化欄 「温故知災・苦難の歴史に学ぶ」
「福田新田の悲劇---高潮の猛威」堤防決壊、次々と家屋漂流



福田新田旧5ヶ村(現在倉敷市北畝、中畝、東塚、南畝、松江)は幕末に誕生し、500ヘクタールを超す新たな農地をもたらせた。
周辺の村から入植した人々は、水はけの悪い低地んがら米、綿、サトウキビ、梨などの栽培に励んだ。
だが徐々に生産が軌道に乗り始めた1884(明治17)年8月25日、悪夢のような災害に襲われる。


「雨戸は弓のようにしわり込み」、猛烈な嵐から、わら葺きの家屋を必死に守る住民たち。
日付が変わるころ、暴風の中で叫び声が聞こえた。
「堤が切れた、堤が切れた」


吹きつける暴風と台風通過に伴う気圧の低下、そして大潮と、高潮災害が起きる悪条件がいくつも重なった。
押し寄せる高波に、干拓地の西、南を囲っていた堤防が次々と決壊。
内部に海水が流れ込んだ。
住民の多くは暴風雨に耐えることに懸命だったため、潮水が屋内に浸入して、初めて事の重大さに気付いた。

「戸の隙間からドウドウと水がはいりだした。避難するところは何所もない」
追い詰められた人々は屋根の上へ逃れるよりしかなかった。
暴風の中、屋根わらに必死にしがみついたという。

高潮の猛威はさらに続く。
多くの家屋が水の勢いに押し倒され、住民を屋根上や屋内に残したまま、漂流し始めたのだ。
漂流する家同士がぶつかり、崩壊するなどの悲劇が各所で起きた。


ようやく空が白み始めたころ、
流された家々は福田新田の北、福田古新田との境にあった土手に折り重なるように漂着していた。
「青田、民家は残す所なく泥海と化し去り」
子を失った親があてもなく探し歩き、濁流の中で力尽き、妻子の手を離した者が大声で泣く姿など、
惨憺たる状況を遭難記は伝える。

1年後、当時の県令が慰霊のため「千人塚」の碑を建立している。
旧5ヶ村の住民は「千人塚奉賛会」をつくり、今も輪番で供養祭や清掃活動を行っている。






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笠岡敬業館

2021年01月17日 | 江戸~明治
笠岡敬業館跡

(2017.12.28 笠岡市笠岡)



・・・・・・・

「近世の生活文化史」 定兼学著 清文堂出版社 1999年発行



民衆の教育活動

近世中後期には、各種産業が一層の展開を遂げている。
鉄、たばこ、塩、綿、弁柄、茶、漆、紙などの特産の商品流通は当時形成された。

この時期に地域の教育・文化を担う地方文人が多く輩出した。
彼らは知識に飢えた豪農なだ富裕な家に寄宿していた。

支配者も封建制維持のため、豪農・文人たちを利用して民衆教化に努めた。



寺小屋

寺小屋の数は全国で15.542,岡山県の数は1.031となっている。
全国第3位、
私塾数は144、全国1位。
寺小屋は備中に多く、浅口郡の82が最高。
寺小屋の教育は大部分が習字である。
教科書は「往来物」が多く、それを書いて読んで覚える。



私塾

私塾は寺小屋から一歩進んで、いわゆる高等教育をしている場である。
民衆にとって非日常的で高度なものであった。




郷学兼教諭所
笠岡敬業館


早川代官の管内笠岡でも地域住民の願いによって郷学兼教諭所敬業館が設立された。
寛政9年(1797)のことである。
笠岡ではすでに代官より小寺清先に毎月教諭を仰せつけられており、その実績があがっているのであるが、
このたびは教諭所を設けたいという地域住民の願いであった。

笠岡の町民有志14人が出資し、代官所に納めて学校を建築し、その余りの銀を貸し利子でもって運用しようとした。
翌年には敬業館の敷地は村有となりさらに永久免租地となった。
支配が変わっても永続するようにとの配慮である。

敬業館の教授小寺清先(1748~1827)は神島の神官で若いころ京都で神道を学び、和歌、国学の研究もしている。
漢学にも造詣が深く、菅茶山・西山拙斎・頼山陽らと親交があった。
彼は寛政11年頃から神官の仕事を長男・清之に任せ、敬業館の教諭に専念した。

しかし敬業館の経営の基盤である貸付銀の回収がままならず、嘉永3年(1850)に廃絶した。
翌年笠岡代官佐々井半十郎の手代喜多村儀八郎が敬業館再興に尽力したが再興はならず、
小寺家は一私塾教師となった。

ところで早川代官は1801年14年間の久世在任ののち、武蔵へ転出している。
彼の民政は松平定信を範としており、概して保守的なものだったが、地域の実態に応じて
産業振興・風俗刷新をしていた。
それだけに民衆の信頼が厚かった。
彼の死後、武蔵・久世・笠岡に頌徳碑が建てられた。
また久世では早川踊りが創始され、顕彰されている。



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従軍看護婦

2021年01月16日 | 江戸~明治
戦争と看護婦


「日本の歴史14 「いのち」と帝国日本」  小松裕著 小学館 2009年発行
   

本確的な看護婦養成が始まったのは、1887年(明治20)に日本赤十字が創設されてからである。
日清戦争の開戦とともに、広島予備病院に看護婦21名を含む救護班が派遣されたが、
軍の上層部に軍隊内の風紀が乱れるなどの懸念が強かった。
入選基準に「なるべく年をとり、しかも美貌でない者」という一項をいれた。


日露戦争では、看護婦は患者輸送船に乗船して治療にあたったが、戦地に送られたのは男性の看護人だけだった。
実際に戦地に派遣されるようになるのは、第一次世界大戦中の青島出兵やシベリア出兵からであるが、まだその数は少なかった。

1919年(大正8)から陸軍看護婦制が採用され、満州事件から日中戦争の時期に本格的に戦地へ派遣されるようになる。
従軍看護婦の誕生である。

看護婦は日清戦争後から叙勲対象になり、戦病死者は靖国神社に祀られた。
看護婦として従軍することが、国家に対する「女子の忠」とされたのである。



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従軍看護婦


ウィキペディア

1901年(明治34年)12月の日本赤十字社条例(勅令223号)が改正され、
「陸海軍ノ戦時衛生勤務ヲ幇助ス」
「陸軍大臣、海軍大臣ハ第1条ノ目的ノ爲日本赤十字社ヲ監督ス」
「救護員ハ陸海軍ノ規律ヲ守リ命令ニ服スルノ義務ヲ負フ」
「看護婦長及看護人長ノ待遇ハ下士官ニ、看護婦、看護人ハ兵ニ準ス」
と規定され、日赤看護婦と陸海軍の関係は、不即不離のものとなる。

日露戦争においては2160名もの日赤看護婦が従軍し、39名の犠牲者を出した。

1919年(大正8年)、それまで平時の陸軍の病院には看護婦は全く存在しなかったが、
東京衛戍病院において試験的に看護婦を採用したところ、大変に評判がよかったので、翌年からすべての陸軍衛戍病院において看護婦を採用し、
「陸軍看護婦」と称するようになった。待遇は、婦長は「伍長相当待遇」看護婦は「二等兵相当待遇」であった。
戦時においては陸軍看護婦も日赤看護婦と同じく、外地での勤務も命じられた。


満州事変中の日本の従軍看護婦。(1931年9月)
日中戦争が勃発し戦線拡大すると、従軍看護婦の不足と従軍者の補充が大きな問題となった。
太平洋戦争勃発後の1942年には従来の救護看護婦(高等女学校卒業)を甲種看護婦に格上げし、新たに乙種看護婦(高等小学校卒業の学歴で、2年間の教育)という速成コースを設ける。
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、
延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。

太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。
応召中の日赤看護婦は15,368名であった。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。




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初めの頃は「なるべく年をとり、しかも美貌でない者」だったが、


太平洋戦争になると、逆に「なるべく若く、しかも美貌である者」になったのだろうか?
それとも、それは映画の世界だけ?


もっとも南の戦場、ラバウルに派遣された赤十字社の看護婦。美しい!!!!!!


東宝映画「さらばラバウル」の岡田茉莉子





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あこがれの「笠岡女学校」

2020年12月19日 | 江戸~明治
あこがれの「笠岡女学校」


管理人の祖母は4人姉妹の次女だった。
長女が家を出たので、次女である祖母が養子をもらって家を継いだ。
なぜ長女が家を出たのか、数年前におばの話しで知った。
以下はおばの話。


「長女は笠岡に女学校ができるというので、そこへ行きたかった。
どうしても行きたかったが親が許さなかった。

そしたら吉浜の(子供がいない)分限者から、「うちへ養女に来るなら、女学校へいかしちゃる」という話があった。
長女は自分から進んで養女になった。
そして出来たばかりの笠岡女学校へ入学した。
女学校の第二回卒業生だった。」



下記は笠岡女学校の創立当時こと。
勉学に燃える女性で、かつ裕福な家庭の子が入学したのであろう。


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「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行



(第二回卒業生・明治38年 「笠岡高校70年史」)


明治32年(1899)高等女学校・実業学校令が公布され、教育機関開設の要望は高まってきた。
明治33年(1900)岡山に県立の高等女学校が設けられた。
笠岡女学校はこのような背景のもとに創立されたのである。

こうして明治35年(1902)この地に町立の女学校が創立され、同時に町立の商業学校が設立された。
修業年限・定員を本科4ヶ年160名、技芸3ヶ年60名として開校された。
明治37年3月に第一回卒業生12名を送り出した。

明治40年、小学校令が改正され尋常小学校の修業年限が4年から6年になった。
同年以降入学志願者が増えた。女子教育の関心が高まり、
笠岡女学校は明治末期になっていよいよ充実発展の過程をたどるようになった。


(職員・生徒 明治40年 「笠岡高校70年史」)






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塩田開発の地元交渉

2020年07月23日 | 江戸~明治
江戸時代の新田開発は、地元民に納得してもらうよう交渉や説得している。
これは↓、玉野市の山田の塩田計画についての話。

近代になってから、特に15年戦争当時の無理やり土地徴収に比べると、江戸時代の方が
民主的に感じてしまう。
(昭和の一時期は、大変な時代であり、情けない時代だったと思う)

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「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行

塩田造成の地元交渉


野崎家は文政12年(1829)に、山田村沖の干潟を干拓して大規模な塩田の造成を計画した。
のちの東野崎塩田である。

野崎家の打診を受けた、周辺8ヶ村のうち7ヶ村は賛成した。
工事の労働者や、商売もでき収入増を期待した。
この7ヶ村は漁業をしていなかった。塩田の悪影響はなかった。

胸上村だけは事情が違った。
漁業は村の重要産業で、支障がでると村ぐるみ反対した。

野崎家はまず、
米40~50俵を毎年胸上村に支給することを提案。
胸上村は拒否。

次の提案、
毎年米100俵を漁師に支給する。
物資輸送には、すべて胸上村の船を使う。
造成工事には胸上村から多数雇う。
胸上村は同意せず。

最終的に、
塩問屋の収益の一部を胸上村に渡す。
毎年、米100俵ぶんの代金を胸上村に渡す。
塩田の物資輸送はすべて胸上村を使う。

天保8年(1837)には、塩田が造成され排水不良で農業に悪影響が出ると6ヶ村から補償要求があった。
村人たちは黙って泣き寝入りすることなく、ねばり強く交渉して補償を獲得した。

野崎家の当主武左衛門は
「この地域の人々は、自分の利益ばかり考えている。苦労は筆にも言葉にも尽くしがたい」と記している。
補償問題の複雑さ、困難さは今も昔も共通するところがあった。


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干拓と漁民への補償

2020年07月23日 | 江戸~明治
管理人の実家は土手に面していて、土手の向こう側は海だった。それは江戸時代中期の頃。
吉原新田と呼ばれる干拓で海までは200~300m離れた。

笠岡市域の多くの新田開発も、↓住民に似たような説得をしたのだろう。

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「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行


岡山藩による干拓と漁民への補償

元禄5年(1692)から藩営の沖新田造成工事が始まった。
開発に際して、次のような文書を出して漁師たちを説得した。

「今回の干拓予定地で行われている漁業は小魚を獲る小規模なもので、獲れた魚は藩内のみで売られており、領外では売り出されていない。
したがって、領外から金銀を獲得することには貢献しておらず、領内の金銀を消費しているだけである。
漁獲量の減少に対しては、それに応じて、漁師たちに干拓地を割り当てて与えるので、そこを耕地に開発して農業を営めば、漁師たちの収入ははるかに増えるだろう。
小魚漁よりも、耕地を増やして農業生産を拡大させるほうが、藩にとっても、漁師たちにとっても利益になる」


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北条早雲の生誕地

2019年10月29日 | 江戸~明治
「週刊文春」2019年10月24日号に、
角川選書「戦国大名・伊勢宗瑞」駿河台大教授・黒田基樹著
の評論が作家・富樫倫太郎で載っている。

富樫氏の評論は、思い込みや、時代遅れの感がする。
かろうじて、備中・高越城で生まれたとこまでは否定していない(肯定もだが)ようだ。


(笠岡市走出から望む)井原市高越城跡 2019.9.25

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「これほど有名なのに、ごく最近まで、実像が不明で、所伝のほとんどが間違っていた、というのが北条早雲である。
かつて早雲といえば伊勢の素浪人に過ぎず、一山当てようと仲間たちと語らって駿河に下り、権謀術数を駆使して大名にのし上がった梟雄であり、下克上の権化と見られていた。
88歳まで生きた長命の武将としても知られていたが、実は、すべて間違っている。
そもそも「北条早雲」は存在せず、正しくは「伊勢新九郎盛時」であり、出家してからは「北条庵宗瑞」である。享年は64だ。

室町幕府の高級官僚として将軍に仕えていた宗瑞が、なぜ、駿河に下ったのか。
著者の黒田氏は言う。
京都にいる領主が地方の領地から年貢を送らせて暮らすという仕組みが崩壊し、将軍の側近といえども、まともに食えなくなった。
食えないから下向したのだ。」


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笠岡から玉島への港替願

2018年12月29日 | 江戸~明治
江戸時代の玉島港と笠岡港の争い、競争。
備中町史には「悪辣な収奪」とまで記されているが?実際はどうだったんだろう。

「備中町史・本編」より転記。
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笠岡から玉島への港替願
天保9年(1838)備中北部幕府領24ヶ村の指導者・平川村の庄屋・弥七郎が年貢米の入用節減のため、港問屋の仲間稼による収奪の甚だしかった笠岡港から比較的軽かった玉島港へと、年貢米の港替えを変えようとした。
年貢米を川下げののち海船に積み込む港を、笠岡から玉島へ変更することであった。
もともとは玉島港であったが、寛保3年(1743)に倉敷の代官が笠岡に変わったので幕府に願い出て変更していたのである。
一石当たり玉島の1.6倍の入用を要すのが理由である。

笠岡港の問屋は亀川屋又左衛門が村々を買収した。
幕府は笠岡玉島両港を積み立てと決した。
弥七郎はこの争いを通じて、笠岡港問屋の年貢米輸送を対象とする収奪ぶりを白日のもとにさらし、代官所を通じて幕府にその株仲間の具体的内容を訴えもしたので、もはや彼らの以前のごとき悪辣な収奪は憚らざるをえなかった。
さらに天保12年、幕府が実施した株仲間解散令が、弥七郎の企図したところを徹底させるものであり、弥七郎の目的は達せられたとも評価しうるのである。

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トト道

2018年12月12日 | 江戸~明治

管理人は半農半漁の村に育ったので、生魚を食べる機会は多かったが、それは商品にならない雑魚を意味する。

年に何度か?
母が「ブエン(無塩)じゃ」と嬉しそうに料理していた。
日本人が無塩の魚を食べれるようになったのは、冷蔵庫が普及した、高度経済成長後と思われる。
それまでは年に1~2度、慶事に食べるものだった。




ところで金浦の魚は何処が市場だったのだろう?
金浦から井原・芳井・高山に売られていたと思うが、
市内の新山や北川では備中松山に運んだという説がある。
松山城下の魚は、黒崎や寄島の方が無理がないように思えるが・・・
(調査していないので自信はない)

下記の成羽町史でも、全盛期の吹屋まで運ばれているが、備中松山へという個所はない。

「成羽町史」より転記する。

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「成羽町史」より転記する。


生活に必要な日用雑貨品は、玉島から高瀬舟で運ばれていた。
この川船往来とは別に、海魚が笠岡方面から吹屋へ運ばれた。
かつて古老に聞いた話であるが、足自慢の若者が、夜半に笠岡を出て、宇土谷を経て、保木の坂から成羽へ駆け抜けた。
成羽で引き継がれた魚は、羽山街道を上って吹屋へ運ばれたという。
山の中の吹屋での最高のご馳走は海の魚、いわゆる「トト」であった。
したがって、吹屋へのこの道を「トト道」といった。
繁栄を極めた吹屋銅山の往時が偲ばれる。


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2018.12.29「矢掛町史」から追記
矢掛町矢掛より東は玉島・寄島と記されている。

矢掛町史「行商」
魚の行商が最も多く、小田、中川、川面には笠岡の西浜から来ていた。
また、矢掛、美川、山田、三谷には富峠を越えて玉島、寄島から自転車やテンビン棒でかついで持って来ていた。

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