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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

祖父母の下着

2018年12月12日 | 江戸~明治
明治20年代後半に生まれた祖父母が着ていたもの。

祖父は1990年代に亡くなったが、パンツでなくフンドシだった。
子供の頃、父はなぜフンドシでないのだろうと思っていた。

祖母は、亡くなるまでお腰(オコシ)だった。
ズロースは、はかなかった。
トイレは家でも畑でも立ってしていた。
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明治時代の結婚式は夜に

2018年12月12日 | 江戸~明治
管理人のひいひい祖母さんは、戦時中に98才で亡くなったが結婚式は提灯行列で嫁入りした。
1846年生まれなので、20才前頃かな? 1865~6年頃、明治維新の直前頃の式と思える。
その夕方~夜の婚礼は明治末ごろまでつづいたようだ。
昭和17年、母はタクシーで嫁入りしたそうだから昼の婚礼になる。


「奥津町の民族」2004年発行より転記
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昔の挙式は「夜10時にした」というように夜であった。
予定時刻になると花嫁は髪を整えてもらい奥座敷に入る。
嫁に行く場合は、歓びをもらった親戚や近隣、知人を招待して宴を開いた。
このことを「出立ちをする」と言った。
嫁ぎ先が遠方なら婚礼日の前日に、近くの場合は当日行い、嫁に出る娘が別れの挨拶をする。
なお、出立ちをする前に、氏神様に参ったり近所に挨拶回りをしていた。
出立ちの宴が終わる頃、花嫁は仲人の先導で奥座敷の縁側から出ていった。
これは、もうこの家の者でなく「縁を切って出る」おいう意味があったという。
家を出る時に藁火を焚く習慣もあった。家を出るとき、この火をみたら寂しい思いがしたという。
昭和20年頃までの結婚式は夜、または夜にかけて行われることが多かった。
提灯に先導されて歩いてきたという古老が多い。
「大正末から昭和初期には、花嫁を馬で運ぶ人がいた」
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軍隊が置かれた城

2018年09月01日 | 江戸~明治
明治維新でお城は政府・兵部省の所有となり、明治5年に陸・海軍省発足で陸軍省が所有となり、翌明治6年に軍の使用予定がない城は廃城令が出た。
廃城令が出た城は財務省が管理し、学校・役所等使用で売却することになった。

中国四国では、津山城・福山城・三原城・萩城・今治城・高知城などが廃城となった。


「日本の城1000城」西東社 2012年発行より転記。

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軍隊が置かれた城

明治4年(1871)4月、2鎮台が置かれた。同年8月東京・大阪・鎮西・東北と4に増える。
鎮台は国内治安向けの歩兵主力の軍隊で、本営4ケ所、分営8ヶ所が、旧城内に置かれた。この時、仙台城・大坂城・小倉城にそれぞれ鎮台が置かれた。
そして弘前城・佐倉城・上田城・名古屋城・小浜城・高松城・広島城・鹿児島城に分営が設置された。

明治5年、兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が設置される。城郭の管理は兵部省から陸軍に変わった。

明治6年に鎮台が4から6に増えた。鎮台を含む営所はこの時14ヶ所、将来は41に増やす計画であった。
そしてのために必要になる旧城郭以外の城はすべて廃城となっている。

これにより存城とされたのが、
二条城・大坂城・津城・名古屋城・豊橋城・静岡城・山梨城・小田原城・江戸城・彦根城・高崎城・宇都宮城・若松城・仙台城・盛岡城・山形城・秋田城・福井城・金沢城・新発田城・陸前高田城・鳥取城・松江城・姫路城・岡山城・広島城・山口城・和歌山城・徳島城・丸亀城・高松城・松山城・宇和島城・福岡城・小倉城・熊本城・飫肥城・鹿児島城・厳原城・首里城であった。

しかし山口城のように存城がいったん決まったものの、その後廃城令が出た城もある。
存城が決まっととはいえ、城は軍隊を駐在させるための場所であった。
城内の建物は必要がないとされた建物は壊された。
残された建物の多くも使い勝手がよいように改修されてしまったものが多かった。

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文化財の海外流出

2018年07月28日 | 江戸~明治
文化財や美術品の海外流出は、たいはんが明治維新後の「西洋志向」や「廃仏毀釈」の時と思っていたが、
実際はかなり広範囲の時代、しかも現代までわたっているようだ。

週刊新潮・2018年7月26日号より転記する。

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誰が「国宝を流出させたか」 

ボストン美術館の
「平治物語絵巻」は、フェノロサが道具商から言い値の倍で買った。
「吉備大臣入唐絵巻」は昭和8年、ボストン美術館の東洋部長富田幸次郎が購入し、ボストンに持ち帰った。
明治15年から8年間日本に滞在した医師ビゲローは41.000点の美術品を同館に寄贈した。ボストン美術館の浮世絵の8割以上がビゲローが蒐集したもの。

ワシントンDCにあるフリーア美術館
実業家フリーアが蒐集した日本の美術品を基礎に大正12年にオープンした。
蒐集したコレクションは1万点。宗達や尾形光琳の作品多数。

川崎美術館
川崎造船所を一代で築いた川崎正蔵は、同郷松方正義との関係で、日本美術の名品を蒐集し川崎美術館を開館した。
「予が美術品を蒐集するは海外に流出を防止せんがため也」
開館から15年後、昭和2年金融恐慌が起こり、川崎家では損失補償のため美術品を売りに出さざるを得なくなった。
宝楼閣曼荼羅図はフリーア美術館の所有になる。

建築家ライト
ライトはボストンの実業家スポルディングに現在価値20億円もの金を委託され、すべて使い切って浮世絵を買いあさった。
のちに6.000点の浮世絵をボストン美術館に寄贈する。

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明治維新後

2018年07月06日 | 江戸~明治
「三原市史・第二巻」より転記する。

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維新後の三原町


明治3年、正月4日の初寄合での協議内容によると、

(1)町では近頃物価高になり、商売も少なく、みんな困窮しているのに、役所へ上納する間内銀は三倍増となり、時の相場で米で立て替えて上納することになった。
(2)米値段はことのほか銀高になり毎年調達するのに困っており、取り揃えも容易ではなく、手元で立て替えて支払い、あとから未納者に催促するがうまくいかない、
(3)新しい体制になってからは、出費もかさみ、以前のように各村から年貢米を運んできてその年の決済をすることもなくなり困っている。
(4)目代所で増加した仕事は各村で努めるから、なるたけ間内銀を出さないですむようにしてほしい、と願い出る事にしている。
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麻作り

2018年06月25日 | 江戸~明治
笠岡では「備中三白」の綿があり、麻の栽培歴はないように思える。
庄原市では綿より麻が盛んだった。

「庄原市の歴史 通史編」より転記する。

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麻の栽培から機(はた)を織るまで。

春に良畑に種まき
必ず小鳥がやってくるので鳥追い小屋を建て、小屋から引っ張って鳴子を鳴らした。

手入れ
本葉が3枚くらいで間引き、下肥を2,3回汲んだ。
収穫
背丈以上に伸びた麻は、土用の入りが過ぎた7月23.24日頃に刈る。
麻は一日のうちに刈って蒸し終わる作業をこなさなければならない。
根元を刈る。葉を落とす。
麻を麻蒸(おうむし)する。10数人が必要で、近所や親せきが馳せ参じる。子供は競って見物に集まった。
晩には夕食を出した。年にめったに見ない白米飯の顔を拝むのもうれいしいことだった。今でも窯が残っている。
蒸したものは畑にひろげで干し、二日目に麻に残っている葉をたたきつけ落とした。三日目に干し終わる。
麻へぎ
麻は皮を剥ぐだけずつ前夜に川か池に浸し、束のまま石で重しをし、剥ぐ日に持ち帰った。「川通い」といって苦しい仕事で、水から上げる前は踏み洗いをした。
剥ぐには土間や納屋で二人向き合って一束を剥いだ。竿にかけて乾かした。

紡績
剥いだ皮は貯蔵できるので、農閑期に紡績した。
まず皮を繊維にする。
灰を入れて煮る。一握りずつ、片手でしごいて「扱麻」にした。
濃い米ぬかの汁に扱麻を入れて、その後に陰干しする。
繊維を引き出し、よって糸にする。
もういちど鍋で煮て乾かした。
糸はチキリ巻き、カザリ掛けをして織機(おりばた)に上げる。


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八甲田山の遭難

2018年06月20日 | 江戸~明治

今月末、東北3県(青森・秋田・岩手)に旅行する。

八甲田山にも行く予定にしている。

 

(夏でも雪が残る 2018.6.29)

 

・・・

「青森県の歴史」山川出版2000年発行


八甲田山の遭難

日本の軍部は、対ロシア戦争の準備を進め、第八師団も訓練を行った。
寒冷地である満州での戦闘を予想し、青森の第5連隊と弘前の第31連隊に明治35年1月に厳寒期の耐寒訓練のため、八甲田山の雪中行軍を命じた。

1月23日、
青森を出発した第5連隊第二大隊の山口大隊長以下210名は一泊二日の予定で田代をめざした。
しかし、厳寒の中で案内人をつけずに出発して道に迷い、装備も不十分であったこともあり遭難し、救出後の死亡者を含め199人が凍死した。
最初に発見されたのは直立していた後藤房之助伍長であった。
その後、各地で遭難者や生存者が発見された。
生き残ったものも、凍傷のため肢体を失ったりした。
のちに後藤伍長の立像が、軍人らの拠金により遭難地の近くに建てられた。
なお、
同時期に弘前の第31連隊40人の一隊は案内人をつけ、弘前から八甲田山をこえ、青森までの雪中行軍に成功した。

・・

ウイキペディア

捜索方法

捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、それぞれが所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。
また、捜索活動初期の頃、北海道から辨開凧次郎らアイヌ人一行を招き、および彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、遺体発見でかなりの成果を挙げた。

遺体収容

粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕ける。衣服を剥いだ後、鉄板に載せられ直火にて遺体を解凍し、新しい軍服を着せてから棺に収容して本部まで運搬した。
水中に没した遺体川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。
腐敗がひどく身元がなかなか判明しない遺体もあった。
最後の遺体収容は5月28日であった。


遭難の原因

気象条件
貧弱な装備
指揮系統の混乱
極端な情報不足
認識不足
「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。

・・・

(八甲田ロープエー 2018.6.29)

 

 

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「やわらかに柳あおめる北上の」

2018年06月19日 | 江戸~明治

今月末、東北3県(青森・秋田・岩手)に旅行する。
ぜひとも渋谷村の「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」の歌碑の場所に行ってみたいと思っている。
少年時代に聞いた「北上夜曲」とイメージが重なる。

石川啄木の歌は日本人の感性にぴったり合うような気がする。

・・・

「岩手県の歴史」 山川出版

(2018.6.30)


石川啄木は本名を一(はじめ)という。渋谷村に明治19年2月に生まれ、明治31年盛岡中学にはいり、3年の時にストライキの首謀者の一人となり、学校改革に活躍した。
翌4年退学して上京し、文学に志したが病をえてはたさず、帰盛して詩活動に従う。雑誌「明星」にのせられ、与謝野鉄幹の命名で”啄木”と称するようになった。
明治38年
「あこがれ」をだし、これによって結婚費用を支弁しようとしたが、収入は一文もなく、盛岡に新居をかまえた。
明治39年
渋谷村の代用教員をつとめた。
明治40年
校長排除のストライキを指導し免職となり、一家離散。
妹をつれて北海道函館にて小学校の代用教員となり、その後転々と北海道の新聞社を歩き、社会主義運動にひかれ、上京の志おさえがたく
明治41年
上京し
明治42年
朝日新聞社に入社。
明治43年
「一握の砂」を発刊した。
明治45年
4月13日死亡(26才)。6月に「悲しき玩具」刊行となる。

・・

 

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女工哀史②

2018年06月01日 | 江戸~明治
「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「女工哀史 津村節子」より転記
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細井和喜蔵(女工哀史・著者)は、女工募集方法変遷を三期に分け
一期、明治10年頃から(日清戦争の)27・28年頃まで。前借金制度もない、退社も自由。
二期、日清戦争~日露戦争頃まで。近代産業が急激に発展し、工場の数が増え、女工募集が困難になった。応募した人が待遇が悪いと、帰国して状況を訴える。そのため女工の拘束が必要となり、身代金、年期制度、強制送金制度、教育制度が生まれる。
三期、僻地の果てまで紡績工場の恐ろしさが知れ渡った。直接募集と嘱託募集に切り替え、女工を買いとる。ようするに女衒であった。都会では他の工場から、田舎では村長他世話役、警察まで買収し、娘のいる家につけ届をした。

労働条件については、勤務時間の長いことは紡績工場が最たるもので、12時間が平均で、これに夜業がある。
昼夜交替で作業する、疲労が激しく昼は騒がしく熟眠できない。運転を止めれば、清掃と段取り、止めなければ台から離れられない。
機械事故も多かった。

外出は成績のよい者だけが月に一度許され、部屋長・世話婦・舎監の検印を貰ってようやく門を出る。食べ物の買い物は門衛でとりあげられ、雑誌類は労働者意識には関係ないものだけを選択して与えた。
世話婦は自分の受け持ち区域から欠勤者が出るのを嫌い、叩き起こし、熱の女工は頭から水を掛けられ働いた。
建物は一畳一人分で、二交替のところは朝帰ったものが、昼業者のあとにもぐった。ふとんは湿気、雑菌の住みかとなった。

伝染病は隔離室を急造し、莚を敷いて患者を押し込めた。助からぬと断定し、余計な費用や手数をはぶいた。
臨終迫った者は、死体室という小部屋に連れていきグリスの着いた空き箱に詰め、火葬場へ運搬した。
病気の女郎を一室に閉じこめ干し殺しにした江戸時代の遊郭を思わせる話である。

文明開化、産業改革を支えた女工たちは人の扱いをされず、短い一生を心と体をすり減らして死んでいった。


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女工哀史①

2018年05月31日 | 江戸~明治
江戸時代から明治になっても、農民生活に変化はなく「文明開化」の実感はなかったという本は多い。


「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「女工哀史 津村節子」より転記

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農家の主婦は、家事育児の他に、農作業にも従事し、糸を引き、機(はた)を織って家族の衣類を整えるかたわら、賃機を織った。
家事育児は、女に生まれて当然なすべき日常であり、これは仕事とはみなされない。
女は女ゆえに、それに甘んじなければならなかった。

明治5年(1872)官営の富岡製糸場が創設され女子を採用した。
士族の子女を選び、繰り糸工女を養成した。
工場の発達によって労働力が不足してくると、地元の通勤工員以外に、貧しい地方の貧しい家々から人を集めるようになった。
すぐに辞められては困るから前借金で体を縛り、宿舎に閉じ込めて監視の目を光らせ、逃亡できないようにした。
娼妓と同じ扱いで、
人間を人間と見なさず、酷使をし、懲罰を与え、危険に晒し、病気になっても療養もさせず、見殺し同様を当然としていたのである。

明治6年、政府は物納貢租から金納地租にしたが、税率は変わらず、一層農民を苦しめる結果となった。
地租納入期は秋から冬に集中し、貯えのない貧農は米を売り急いで叩かれ、富農や地主は高くなるのをまって売り大きな利潤をあげた。

地租改正が進むにつれて、農民たちの燃料や肥料・飼料を供給していた土地が官有地となり、山林を待たない農民の生活はますます苦しくなり、商品経済化は、わずかな土地を抵当にし、金を返せず小作人に身を落とすものも多かった。
地主は小作料を商業・銀行・鉄道、その他事業に投資して肥え続けた。
封建時代に、年貢で苦しみ娘を遊廓に売った貧農は、わずかな現金とひきかえに年期契約で工場に娘を渡した。
娘たちは親孝行という美名の許に、品物のように売買さたのである。


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