しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡敬業館

2021年01月17日 | 江戸~明治
笠岡敬業館跡

(2017.12.28 笠岡市笠岡)



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「近世の生活文化史」 定兼学著 清文堂出版社 1999年発行



民衆の教育活動

近世中後期には、各種産業が一層の展開を遂げている。
鉄、たばこ、塩、綿、弁柄、茶、漆、紙などの特産の商品流通は当時形成された。

この時期に地域の教育・文化を担う地方文人が多く輩出した。
彼らは知識に飢えた豪農なだ富裕な家に寄宿していた。

支配者も封建制維持のため、豪農・文人たちを利用して民衆教化に努めた。



寺小屋

寺小屋の数は全国で15.542,岡山県の数は1.031となっている。
全国第3位、
私塾数は144、全国1位。
寺小屋は備中に多く、浅口郡の82が最高。
寺小屋の教育は大部分が習字である。
教科書は「往来物」が多く、それを書いて読んで覚える。



私塾

私塾は寺小屋から一歩進んで、いわゆる高等教育をしている場である。
民衆にとって非日常的で高度なものであった。




郷学兼教諭所
笠岡敬業館


早川代官の管内笠岡でも地域住民の願いによって郷学兼教諭所敬業館が設立された。
寛政9年(1797)のことである。
笠岡ではすでに代官より小寺清先に毎月教諭を仰せつけられており、その実績があがっているのであるが、
このたびは教諭所を設けたいという地域住民の願いであった。

笠岡の町民有志14人が出資し、代官所に納めて学校を建築し、その余りの銀を貸し利子でもって運用しようとした。
翌年には敬業館の敷地は村有となりさらに永久免租地となった。
支配が変わっても永続するようにとの配慮である。

敬業館の教授小寺清先(1748~1827)は神島の神官で若いころ京都で神道を学び、和歌、国学の研究もしている。
漢学にも造詣が深く、菅茶山・西山拙斎・頼山陽らと親交があった。
彼は寛政11年頃から神官の仕事を長男・清之に任せ、敬業館の教諭に専念した。

しかし敬業館の経営の基盤である貸付銀の回収がままならず、嘉永3年(1850)に廃絶した。
翌年笠岡代官佐々井半十郎の手代喜多村儀八郎が敬業館再興に尽力したが再興はならず、
小寺家は一私塾教師となった。

ところで早川代官は1801年14年間の久世在任ののち、武蔵へ転出している。
彼の民政は松平定信を範としており、概して保守的なものだったが、地域の実態に応じて
産業振興・風俗刷新をしていた。
それだけに民衆の信頼が厚かった。
彼の死後、武蔵・久世・笠岡に頌徳碑が建てられた。
また久世では早川踊りが創始され、顕彰されている。



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