※ 今や、王子といえば「ハンカチ」とか、「はにかみ」とか、「ぽっちゃり」になるのだろうが、今回は5年前(2002年)にさかのぼり、JR王子駅周辺のクリーンキャンペーンに参加したときの話である。
◎ 本日(2002年3月24日)、JR王子駅周辺でとりくまれたクリーンキャンペーンに、初めて参加した。簡単に言えばゴミ袋を持ちながら、両手に軍手をはめて燃えるゴミ、燃えないゴミに分別しながら次々と拾っていくのだ。さまざまなゴミを手に取りながら、人間の次のような潜在意識について新鮮な発見があった。
(1)道路にそのままゴミを投げ捨てるタイプの人間は、自分の過去に対しても振り向くことをしないと分析できる。自分がつい先ほどまで、手にしていたものへのあっさりとした無頓着さが、それを物語っている。
(2)通りのつつじの生垣にゴミを捨てる人は、自分の過去に対してうっすらとした恥じらいを感じている。だから、自分の痕跡がついたゴミについても、とりあえず目につかない所へ捨てるのだ。
(3)たばこの吸い殻を排水口へ捨てる人は、自分の痕跡をより徹底して消したがる。灰皿に捨てる人やポケット灰皿を持ち歩く人は、自己管理がうまくできているけれど、排水口へ捨てようとする人はそこまでの努力をしようとしない。正直なところ、私がこのパターンである。
(4)ゴミは地表にばかり落ちているとは限らない。歩道橋の側壁の珊(さん)には、少なからず空き缶がきちんと置いてある。自分が飲み終わった後の空き缶でさえ、姿勢正しくしておきたい潜在意識が働く人。潔癖性の表れである。
(5)駅前のガードレールをよく見たら、支柱と横に伸びる鉄パイプをつなぐジョイント部分の隙間に、使用済みのティッシュペーパー、包み紙に丸められたガム、たばこの吸い殻などが、ぎゅうぎゅう詰めになっていた。こんなことをする人間は、何ごとにおいても執拗である。過去に対する愛着もかなり強く、ゴミとして浮遊するような不安定さを我慢できないのだ。
◎ このように、ゴミ拾いは人の性格を知る上で面白い発見になるし、つつじの生垣の内側に捨ててあったカップラーメンの器と割り箸のなかに、現代の病理につながるような端緒を見たような気がするのだ。コンビニではカップラーメンを売ると同時に、すぐに食べられるようなお湯のサービスをしているが、食べる場所は提供していない(車の中で食べる、コンビニの前の地べたに座って食べる、歩きながら食べる)。
◎ 自由といえば自由なのだろうが、そこまでの自由は行き過ぎなのではないだろうか。食事時間の短縮、具体的には複数の人間で、歓談しながら「食」を楽しむことが少なくなり、空腹を満たせば良いとする風潮は栄養のバランス上でも、ゆゆしき問題である。このように、今日のゴミ拾いというボランティアでは学ぶことが多かった。ぜひ、これからも機会をみつけて参加してみようと思ったのだ。(Fri.24.May.2002)
◎ 本日(2002年3月24日)、JR王子駅周辺でとりくまれたクリーンキャンペーンに、初めて参加した。簡単に言えばゴミ袋を持ちながら、両手に軍手をはめて燃えるゴミ、燃えないゴミに分別しながら次々と拾っていくのだ。さまざまなゴミを手に取りながら、人間の次のような潜在意識について新鮮な発見があった。
(1)道路にそのままゴミを投げ捨てるタイプの人間は、自分の過去に対しても振り向くことをしないと分析できる。自分がつい先ほどまで、手にしていたものへのあっさりとした無頓着さが、それを物語っている。
(2)通りのつつじの生垣にゴミを捨てる人は、自分の過去に対してうっすらとした恥じらいを感じている。だから、自分の痕跡がついたゴミについても、とりあえず目につかない所へ捨てるのだ。
(3)たばこの吸い殻を排水口へ捨てる人は、自分の痕跡をより徹底して消したがる。灰皿に捨てる人やポケット灰皿を持ち歩く人は、自己管理がうまくできているけれど、排水口へ捨てようとする人はそこまでの努力をしようとしない。正直なところ、私がこのパターンである。
(4)ゴミは地表にばかり落ちているとは限らない。歩道橋の側壁の珊(さん)には、少なからず空き缶がきちんと置いてある。自分が飲み終わった後の空き缶でさえ、姿勢正しくしておきたい潜在意識が働く人。潔癖性の表れである。
(5)駅前のガードレールをよく見たら、支柱と横に伸びる鉄パイプをつなぐジョイント部分の隙間に、使用済みのティッシュペーパー、包み紙に丸められたガム、たばこの吸い殻などが、ぎゅうぎゅう詰めになっていた。こんなことをする人間は、何ごとにおいても執拗である。過去に対する愛着もかなり強く、ゴミとして浮遊するような不安定さを我慢できないのだ。
◎ このように、ゴミ拾いは人の性格を知る上で面白い発見になるし、つつじの生垣の内側に捨ててあったカップラーメンの器と割り箸のなかに、現代の病理につながるような端緒を見たような気がするのだ。コンビニではカップラーメンを売ると同時に、すぐに食べられるようなお湯のサービスをしているが、食べる場所は提供していない(車の中で食べる、コンビニの前の地べたに座って食べる、歩きながら食べる)。
◎ 自由といえば自由なのだろうが、そこまでの自由は行き過ぎなのではないだろうか。食事時間の短縮、具体的には複数の人間で、歓談しながら「食」を楽しむことが少なくなり、空腹を満たせば良いとする風潮は栄養のバランス上でも、ゆゆしき問題である。このように、今日のゴミ拾いというボランティアでは学ぶことが多かった。ぜひ、これからも機会をみつけて参加してみようと思ったのだ。(Fri.24.May.2002)