永井隆 著
この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
旧制長崎医科大学で放射線医学の助教授であった著者は、
白血病の診断を受けていた。
そして1945年8月9日に投下された原子爆弾に被爆し、妻を失う。
手もとに残されたのはまだ幼い二人の子ども。
悪化の一方をたどる病状のなか、この子達を残しては死んでも死にきれない、
という苦しい想いを抱きながら、自らが研究してきた放射線に関わる原爆病を
自らの体で経験することになった。
敬虔なクリスチャンである著者は教会再建にも力を尽くした。
しかし、浦上教会で行われた慰霊祭で、原爆を「燔祭」、つまり生贄を神にささげる儀式と
表現したことで物議を醸す。これは現代まで賛否両論ある「浦上燔祭説」となる。
「原爆は長崎ではなく浦上に落ちた」「お諏訪さん(諏訪神社)が原爆から守ってくれた」
と公然と囁かれたこともあるというクリスチャンの立場。
全国でもクリスチャン率が高い長崎ですら、こんな苦しい立場があった。
著者の下の子である茅乃さんは、私の高校の先輩にあたる。
私たちは原爆について学び、反戦教育を受け、「燔祭のうた」を歌った。
燔祭の炎の中に 歌いつつ 白百合乙女 燃えにけるかも
著者が晩年を過ごした「如己堂」は今も残されている。
信者たちの協力で建てられたわずか2畳の建物だ。
腹水がたまり、危険な状況下では、危なくて子どもを近づけられない。
父が眠っていると思い内緒で近寄って「ああ、おとうさんのにおい」とつぶやいた
茅乃さんに対しての言葉が、冒頭の一行である。
この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
旧制長崎医科大学で放射線医学の助教授であった著者は、
白血病の診断を受けていた。
そして1945年8月9日に投下された原子爆弾に被爆し、妻を失う。
手もとに残されたのはまだ幼い二人の子ども。
悪化の一方をたどる病状のなか、この子達を残しては死んでも死にきれない、
という苦しい想いを抱きながら、自らが研究してきた放射線に関わる原爆病を
自らの体で経験することになった。
敬虔なクリスチャンである著者は教会再建にも力を尽くした。
しかし、浦上教会で行われた慰霊祭で、原爆を「燔祭」、つまり生贄を神にささげる儀式と
表現したことで物議を醸す。これは現代まで賛否両論ある「浦上燔祭説」となる。
「原爆は長崎ではなく浦上に落ちた」「お諏訪さん(諏訪神社)が原爆から守ってくれた」
と公然と囁かれたこともあるというクリスチャンの立場。
全国でもクリスチャン率が高い長崎ですら、こんな苦しい立場があった。
著者の下の子である茅乃さんは、私の高校の先輩にあたる。
私たちは原爆について学び、反戦教育を受け、「燔祭のうた」を歌った。
燔祭の炎の中に 歌いつつ 白百合乙女 燃えにけるかも
著者が晩年を過ごした「如己堂」は今も残されている。
信者たちの協力で建てられたわずか2畳の建物だ。
腹水がたまり、危険な状況下では、危なくて子どもを近づけられない。
父が眠っていると思い内緒で近寄って「ああ、おとうさんのにおい」とつぶやいた
茅乃さんに対しての言葉が、冒頭の一行である。