miyabuの雑記帳

ボケ老人の無責任なお話

布袋の街歴史散策③

2015-05-20 | Weblog

この写真は、布袋の大仏さんで親しまれている、「御嶽薬師尊」開眼式の模様です(撮影・滝孟氏)。御獄教を信仰していた前田秀信さんが、昭和54年個人の資金で建立した。現在のようすは、下の写真です。


新町通の北にある駐車場は、「布袋座」の跡地で下の写真のような演芸場がありました、この近辺は料理屋さんや、置屋さんで、歓楽街でした。

布袋駅の完成予想図が次の写真です。名鉄が高架になり、東西の交通の便が画期的に改良され、東側の発展が期待されます。

布袋の街歴史散策②

2015-05-19 | Weblog
布袋の村落は、小折城(生駒家)の支配地で、布袋野と呼ばれる田園地帯だった。織田信長との間に信忠、信雄、徳姫を生んだ吉乃は、この生駒家の娘で、まさに信長の恋と青春の地が、布袋野でした。

写真の高い塀は、村瀬銀行布袋支店当時の「うだつ」です。このような「うだつ」は日本全国探してもない?。「うだつ屋敷」の保存町並みが美濃市にありますが、うだつは防火目的ですから、この方が完璧とは言え、経費面で真似できません。

写真は寛政2年(1790年)創業の丸井合名会社「楽の世」社長・村瀬国彦さんの酒造所ですが、他に、山一酒造「勲碧」社長・村瀬貞夫さん、山星酒造「星盛」社長・村瀬恭平さんの酒造所があります。布袋は、村瀬一族が大きく関与しています、中でも村瀬一族総本家の当主だった村瀬善十郎さんの功績は顕著で、丹羽郡、葉栗郡の郡役所を呼び寄せ、土地の寄付、建設費の一部も負担。養蚕試験場の土地を寄付、建設費にも多大の寄付。そのた、警察や、郵便局にも土地を寄付するなど、布袋の発展に尽力した。布袋の人々は「篤志家・村瀬善十郎」の功績を賛え、昭和12年聖寿院境内に立派な碑が建立した。

この写真は、村瀬善十郎さんが、土地を提供し、建設資金の一部も負担して建設した、養蚕試験場で、当時は西日本で最大の設備と技術を誇り、全国各地から研修者や見学の役人で賑わい、昭和12年頃は、23軒の料理屋・旅館に、80人の芸者が多忙を極めていた。この試験場のあったあたりは、福玉精穀倉庫になっているようです。

布袋の街歴史散策1

2015-05-18 | Weblog
5月17日、江南市立図書館歴史講座「江南の町を知ろう」、布袋の歴史を学び、町並みを散策しよう!講師・山田信夫(前江南市歴史民俗資料館館長)の講座がありました。午前・座学、午後・町並み見学と歴史解説で、多くの学習が出来ました。この学習で得た知識をもとに、布袋の街を少し紹介します。

いま、布袋は大変革をしつつあります。写真は新築されつつある、布袋駅の様子ですが、駅前の大通りから南には新興住宅地が、大きく開発され、北側の旧市街と、対照的です。メイン通りの両側には、沢山の布袋尊が、設置されています。

これは、鳥取県境港市の大木しげるロードにヒントを得たようですが、表情豊かな布袋さんと干支の布袋さんが15m間隔程度で並んでいます。

今回の歴史探訪は、旧市街の本町通りと新町通でしたが、下の写真は、小折城(生駒屋敷)の中門を廃藩置県の際、生駒家の用医を勤めていた広間家が貰い受け、移築保存している門です。ナマコ壁の亀甲模様は、生駒氏の家紋で、亀甲に五三の桐を表しています。木造部分に使われている金具も総て亀甲模様になっている。亀甲模様のはっぴを着ているのが、講師の山田さんです。



文政元年(1818年)創業の「大口屋」は、「飴麩三喜羅」で著名です。5代目と6代目が10年かけて完成させたようですが、命名の三喜羅は山帰来の葉で包んでいる山帰来をもじったとのこと。平日で毎日5,000個、祝祭日で10,000個の生産だそうです。写真の右隅にサンキライの葉が見えます。サルトリイバラが学名かな?。(以下次回)


江南美術協会27年春季展

2015-05-06 | Weblog
平成27年度、春季江南美術協会会員展が、5日から10日まで、江南駅前の「ギャラリーみわ」で開かれています。

柴垣心石作・水墨画・五箇山相倉合掌集落


藤田清美作・水彩画・愛用した山用品


天野充康作・書、陶器、茶道具・源氏物語夕霧


菊谷和雄作・油彩・安曇野

参加者29名、出品点数42点中、4点だけ紹介しました。

特別永住者の選挙権

2015-05-04 | Weblog
公職選挙法9条1項(国会議員)、2項(地方自治体議員)とも、選挙権は国民固有の権利と明記されている。しかし現実は、国民でない人たち(特別永住者)が選挙民名簿に登録されている。自民党が憲法9条を拡大解釈しているように、自民党韓国派、民主党、公明党、共産党、などが公職選挙法を拡大解釈し、韓国政府と歩調を合わせ、選挙権を与えています。特別永住者は約40万人で、その内訳は99%の395,000人が韓国・朝鮮人、1%3,800人が台湾その他です。

特別永住者とは、1945年日本を占領下に置いたGHQが、日本の国籍だった在日朝鮮人、台湾人を戸籍から除去する指令を出した。同年12月17日、戸籍法の適用を受けない者の参政権を停止。翌年3月日本政府の手で、140万人の朝鮮人が半島へ帰還した。帰還せず日本の国籍にも復帰しなかった人達と、その子孫が特別永住者です。

1948年4月3日、韓国政府は、朝鮮労働党の関与を理由に、済州島民6万人を虐殺、島内の70%を焼き払った。続いて10月19日麗水・順天事件で、8000人の民間人を虐殺したことにより、済州島や全羅南道から、多くの難民が日本へ亡命密入国した。1950年6月朝鮮戦争の勃発により、戦火を逃れ日本に流入する朝鮮人が増えた。1953年朝鮮戦争が休戦となり、これらの韓国・朝鮮人を帰還させようとしたが、戦禍で焦土となたため、受け入れ態勢が整備されないとの理由で、送還が拒否された。これが在日韓国・朝鮮人の概況です。江南市でも1495人の韓国・朝鮮人の有権者がいます、市議会へ代表を送れる数字です。



曼陀羅寺・嫁見まつり

2015-05-03 | Weblog

曼陀羅寺の藤まつりに併せて行われる、嫁見祭りは今年で16回目ですが、起源は江戸時代初期に遡るようです。「国の平安は、家庭の平安から」との法然聖人の教えに基づき、その年の新嫁と、姑が仲良く手をつないで、の総支配の先導で、曼陀羅寺への参詣が行われていたようです。私たちが子供の頃は、仲人さんが先導して「嫁みよ!嫁みよ!」と内を練り歩き、披露行列の後、姑さんが、嫁の手を引いて、近所挨拶をしていたのを覚えています。それを16年前から再現しているのが、「嫁見まつり」です。

長持ち行列の後に、今年の3組の新嫁と姑が続き、長持ち歌が披露されながらの練り歩きでした。

曼陀羅寺本堂横で記念撮影