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屋島の戦いで、那須与一がゆれ動く平家方の小舟にかかげられた扇を
見事一矢で射落とし、両軍の喝采をあびた話はよく知られています。
与一は矢を射る前に目を閉じて「南無八幡大菩薩、わが故郷の神々、日光権現、
宇都宮、那須のゆぜん大明神、どうぞあの扇の真ん中に射させてください。
これを射そんじたら、弓を切り折って自害し、誰にも二度と顔を合わせません。もう一度
本国へ帰してやろうとお思いなら、この矢を外させないで下さい。」と必死に念じました。
南無八幡大菩薩の「南無」は、神仏に帰依することを表す言葉で、「八幡大菩薩」は
那須神社とされています。「日光権現」は下野国(栃木県)二荒山の三所権現で、
下野国の一の宮として、古くから崇拝されていました。ついで「宇都宮」は下野国
宇都宮市にある二荒山神社、「那須のゆぜん大明神」は下野国那須岳の登り口にある
那須温泉(ゆせん)神社で、いずれも与一にとって、故郷の産土の神々です。
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前方の森の中に見える平家の真紅の扇に狙いを定める与一
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『源平盛衰記』によると、「義経はまず畠山重忠を射手に命じましたが、
重忠は持病の脚気などを理由に辞退し、彼の推挙で選ばれた与一の兄の十郎は、
一の谷合戦で弓手の肘をつき負傷していたので、代わりに年若い弟を推しました。
仕損じては源氏末代の恥になると、与一は何度も辞退しますが、
聞き入れられず、意を決して馬を海中に乗り入れましたが、内心は
不安と緊張で一杯でした。この時、与一は『平家物語』では二十歳ぐらい、
『源平盛衰記』や『那須氏系図』では、十七歳とされています。
那須与一宗隆(生没年不詳)は、那須資隆の十一男として誕生し、
「与一」は「余一」で、十に余るという事から名付けられました。
扇を射た功により、丹波・信濃・若狭・武蔵・備中など
五ヶ所に荘園を賜り、七代目の那須家惣領の身分を与えられましたが、
病のために若くして亡くなったとされています。
那須氏は藤原道長の孫道家の子貞信を祖とし、下野国那須野が原(栃木県那須地方)に
勢力を持った豪族で、与一の父資隆はその六代目にあたります。
那須神社は仁徳天皇の時代(4C)の創建で、延暦年間(782~806年)に
征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀り、金丸八幡宮と号したといわれます。
屋島合戦で手柄を立てた那須与一が土佐杉を使用して社殿を再建。
奉納した太刀は社宝として伝来しています。
那須氏没落後、戦国期以降は、黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、
大関氏によって社殿が再興され、明治六年(1873)に那須神社と改められました。
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JR那須塩原駅前から道の駅までバスで50分ほどです。
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那須神社境内図
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一の鳥居
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二の鳥居
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長い参道の両脇には杉並木が続いています。
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那須神社説明板と手水舟
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楼門は国重要文化財に指定されています。
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大きな朱塗りの桜門が荘厳な雰囲気を醸し出しています。
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八幡宮の扁額
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拝殿
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拝殿の奥には、国重要文化財に指定されている本殿があります。
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那須神社は通称金丸八幡といいます。
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奥の細道の旅で、那須路に赴いた芭蕉は、二人の弟子、黒羽の浄法寺図書(ずしょ)と
その弟の翠桃(すいとう)宅に滞在し、那須八幡宮に参詣しました。
与一が屋島の合戦で、扇の的を射落とした時、「なかでも我国の氏神である
八幡さまと誓ったのは此神社です。」と聞けば、感慨はひとしおである。と
『おくの細道』に記され、境内は国名勝「おくのほそ道」景勝地に指定されています。
黒羽では、芭蕉は雲巌寺(うんがんじ)を見学し、この寺にある禅の師である
仏頂(ぶっちょう)和尚の旧居跡を訪ねたり、那須湯本の那須温泉神社に参拝、
また殺生石を見学するなどして、十四日間に及ぶ長逗留をしています。
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大田原市には中世から近世にかけて那須氏の拠点が置かれ、
ここで那須与一が誕生・成長したと伝えられています。
「道の駅那須与一の郷」に併設されている「那須与一伝承館」には、那須家から
大田原市に寄託された与一が扇の的を射た際に身に付けていたとされる
「太刀銘成高(しげたか)」や古文書、上杉謙信や豊臣秀吉が
那須家に送った書簡・伝来の絵など貴重な資料が展示してあります。
また館内の劇場では、映像とからくり人形風ロボットを組み合わせ
屋島合戦での与一の活躍が紹介されています。
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道の駅の建物は横に並び、屋根は大きな扇の形をしています。
屋島古戦場を歩く(那須与一祈り岩・駒立岩)
那須与一の墓(即成院)
那須与市堂
『アクセス』
「那須神社」栃木県大田原市南金丸1628 電話 0287-22-3281
「道の駅那須与一の郷」下車、約3分。
秋の例大祭・舞楽の奉納・流鏑馬[日時] 平成28年9月19日(月・祝)予定
詳細は 大田原市観光協会 へお問い合わせ下さい。
「那須与一伝承館」栃木県大田原市南金丸1584番地6 「道の駅那須与一の郷」下車すぐ
伝承館は観覧料大人300円。午前9時~午後5時(入館は4時半まで)。
第2、第4月曜(祝日の場合は翌日)と1月1~3日休館。
電話 0287-20-0220
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『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年
梶原正昭「古典講読 平家物語」岩波書店、2014年「栃木県の地名」平凡社、1988年
「栃木県大百科事典」下野新聞社、昭和55年 「古典を歩く奥の細道」毎日新聞社、1988年
関屋淳子「おくのほそ道」ピエ・ブックス、2010年