コメント
 
 
 
事が終わってからも生きぬくのは辛いですよね。 (yukariko)
2016-06-07 13:41:46
後世でこそ、景清は鎌倉幕府に反逆した不撓不屈の英雄として大衆の人気を集めたかもしれないけれども、生き延びてしまって源氏の世を逃亡者として隠れ住み、頼朝の首を狙うという執念だけを生きがいに生きるのも辛かったのではないかと。歴戦の勇士であればこそなお。

赤穂浪士もですが、事が終わり、裁定が下されて従容と切腹したからこそ、後世の人々によってその苦労の物語が美談として語り伝えられているのだと思います。

 
 
 
源氏の世を生きぬくのは、たいへんだったでしょうね。 (sakura)
2016-06-07 16:13:14
長い逃亡、潜伏生活で疑心暗鬼となっていた景清は、
叔父能忍が自分の居場所を密告するため、弟子を走らせたと誤解して殺害、
仏教界の大物を葬り去りましたが、これも「逃げ上手」、
「生き上手」といわれた敏捷な行動の結果です。

壇ノ浦合戦から十年も過ぎると、鎌倉幕府の平家残党に対する敵愾心は薄れ、
頼朝は平家の侍で仕官しようとする者があれば、召し抱えるよう指示しています。
しかし、自害しようという景清の決心は変わらなかったようです。

 
 
 
随分にぎやかそうな所に (自閑)
2016-06-12 14:38:34
sakura様
今は、新大阪の駅前と云う大変にぎやかそうな場所に有るのですね。
又、2番目に大きい五輪塔が景清の墓と云うのも興味深いですね。
景清物が、人気を博したのに大きくはしなかったので、逆に信憑性が高い伝説かと。
 
 
 
新大阪駅に近いのですが… (sakura)
2016-06-12 16:29:03
光用寺はビルと民家の間にあります。
新大阪駅、南方駅のあたりは賑やかですが、寺の周辺は
人通りがなく、とても静かです。
 
「大阪伝承地誌集成」には、七つの塚は景清とその家来のものと
書かれていますが、そうではないそうです。
 
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