コメント
やはりお墓は京都にあるのですね。
(
yukariko
)
2016-06-17 22:19:33
関白藤原頼通の子で伏見長者といわれた橘俊綱の邸跡が
お寺になったのなら石造の宝塔は橘俊綱の塔…ならわかりますが、那須与一がこの寺で出家し、亡くなったとしても与一だけでなく、那須家先祖代々の墓もこちらにあるのも?な気がします。
でも下野国那須庄が寺領として寄進されたのならありえるのでしょうね。
後世の人気度では断トツでしょうから(笑)
場所は流転を重ねても
(
自閑
)
2016-06-17 22:33:12
sakura様
与一の墓や手洗い場所など、寺堂の場所は変わっても、伝説だけは移転して行くおもしろい例ですね。
この当たりは、行った事が無く、又貴blogを導として巡りたいと思います。
拙句
伝え聞く場所は変われどせみ時雨
(この分ですと訪問するのは梅雨明け頃かと)
Yukarikoさま
(
sakura
)
2016-06-18 16:36:15
そうなのです。
与一の墓や供養塔は各地にありますが、京都にもあります。
若きヒーロ与一が海に乗り入れた馬の上から放った矢がみごと扇の的を射落とし、
両軍から喝采をあびた話は誰もが知っていますね。
源平合戦の絵巻には、この光景が必ず描かれています。
しかし、その後はすべてを捨てて仏門に帰依し、
若くして亡くなったとされる与一。
与一の身に何があったのでしょうね。
自閑さま
(
sakura
)
2016-06-18 16:41:11
京都に引っ越して来られてから、市内はもとより
奈良・吉野 、明石・高砂、丹波・丹後など精力的にたずねていらっしゃいますが、
この辺はまだ行かれたことがないそうですね。
別に吟行など行かなくてもいい句がお作りになれる!
きっと想像力がたくましいお方なのでしょう。
「伝え聞く」と「せみ時雨」で聴覚のイメージが入り、
「せみ時雨」からはうっそうと茂る木々や夏の暑さが思い浮かび、
泉涌寺へのゆるい坂道を汗を拭きふき、作者が上ってこられる情景がよくわかります。
与一の塔は、宝塔としては最大の大きさだそうですが、
上部の相輪が失われ、代わりに五輪塔の空輪・風輪がつけてあります。
先日はありがとうございます。
(
揚羽蝶
)
2016-06-27 23:07:23
先日は、即成院についてご教授いただきありがとうございます。与一の扇の的の話は、平家の援軍の田口勢が
駆け付けるまでの余興とか、扇の的に控えていた、浜戦で恋人を亡くしていた玉虫の話もありますが、やはり
見事 的を射止めることがクライマックスでしょう。
平家人は、たとえ敵であってもその素晴らしい技量や
勇気には拍手喝さいを、惜しまないのです。
あなかしこ。
揚羽蝶さま
(
sakura
)
2016-06-28 14:19:44
ご教授だなんてとんでもないです。
素人ですから、わからないことが多すぎて
記事を書くのもなかなかはかどりません。
何とか全巻読み終えたいと思っているのですが…
平安貴族文化の影響を強く受けていた平家には、戦場であっても
強者を讃え、弱者をいたわるロマンがありました。
戦さの勝負を鏑矢で占うことを「吉凶矢」といいますが、
こういう占いは当時よく行われていたようで、紀州の田辺湛増が
源平どちらにつこうかと、紅白の鶏を闘わせた結果、赤鶏が負けたので源氏に味方する意思を固めたと平家物語は語っています。
与一の射た真紅の扇が波にゆられて漂う情景が夕陽の中に描き出され、
まるで一幅の絵を見るようですね。
しかし、場面は急転し与一の技を敵ながらあっぱれと感極まって
踊り出した平家の武者を与一は殺傷能力の劣る鏑矢でなく、尖り矢で射たおしています。
これは義経の命だといって射殺すよう伊勢三郎が与一に伝えたからです。
この時の与一の心境を平家物語は何も語っていません。
お教えください
(
関家といいます
)
2021-07-26 00:00:13
関家(せきや)と申します。この記事やコメントを読ませていただき、ありがとうございました。写真の中の即成院様の寺紋が我が家の家紋と酷似していることに驚きました。我が家の先祖は祖母・母親から那須与一と聞いていますが、太平洋戦争で愛媛・松山空襲で家が焼かれ、系図と家宝が焼失してしまったため証拠がありません。定年退職をしましたので、先祖確認をしようと思っていましたら、新しい職場ではコロナで他県への旅行を禁止されており、確認できない状態が続いています。先祖のことで分っていることは、「親藩大名:伊予松山藩の藩士」。姓が「関家(せきや)」といい、那須家関係では全く出てこない姓。家の宗教は「真言宗」で、家紋は即成院の寺紋に酷似(公家の家紋のように綺麗)しており、那須家とは全く違う家紋ということです。ぜひ即成院を訪問したいと思っています。皆様、何かお分かりのことがあればお教えいただけると幸いです。
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お寺になったのなら石造の宝塔は橘俊綱の塔…ならわかりますが、那須与一がこの寺で出家し、亡くなったとしても与一だけでなく、那須家先祖代々の墓もこちらにあるのも?な気がします。
でも下野国那須庄が寺領として寄進されたのならありえるのでしょうね。
後世の人気度では断トツでしょうから(笑)
与一の墓や手洗い場所など、寺堂の場所は変わっても、伝説だけは移転して行くおもしろい例ですね。
この当たりは、行った事が無く、又貴blogを導として巡りたいと思います。
拙句
伝え聞く場所は変われどせみ時雨
(この分ですと訪問するのは梅雨明け頃かと)
与一の墓や供養塔は各地にありますが、京都にもあります。
若きヒーロ与一が海に乗り入れた馬の上から放った矢がみごと扇の的を射落とし、
両軍から喝采をあびた話は誰もが知っていますね。
源平合戦の絵巻には、この光景が必ず描かれています。
しかし、その後はすべてを捨てて仏門に帰依し、
若くして亡くなったとされる与一。
与一の身に何があったのでしょうね。
奈良・吉野 、明石・高砂、丹波・丹後など精力的にたずねていらっしゃいますが、
この辺はまだ行かれたことがないそうですね。
別に吟行など行かなくてもいい句がお作りになれる!
きっと想像力がたくましいお方なのでしょう。
「伝え聞く」と「せみ時雨」で聴覚のイメージが入り、
「せみ時雨」からはうっそうと茂る木々や夏の暑さが思い浮かび、
泉涌寺へのゆるい坂道を汗を拭きふき、作者が上ってこられる情景がよくわかります。
与一の塔は、宝塔としては最大の大きさだそうですが、
上部の相輪が失われ、代わりに五輪塔の空輪・風輪がつけてあります。
駆け付けるまでの余興とか、扇の的に控えていた、浜戦で恋人を亡くしていた玉虫の話もありますが、やはり
見事 的を射止めることがクライマックスでしょう。
平家人は、たとえ敵であってもその素晴らしい技量や
勇気には拍手喝さいを、惜しまないのです。
あなかしこ。
素人ですから、わからないことが多すぎて
記事を書くのもなかなかはかどりません。
何とか全巻読み終えたいと思っているのですが…
平安貴族文化の影響を強く受けていた平家には、戦場であっても
強者を讃え、弱者をいたわるロマンがありました。
戦さの勝負を鏑矢で占うことを「吉凶矢」といいますが、
こういう占いは当時よく行われていたようで、紀州の田辺湛増が
源平どちらにつこうかと、紅白の鶏を闘わせた結果、赤鶏が負けたので源氏に味方する意思を固めたと平家物語は語っています。
与一の射た真紅の扇が波にゆられて漂う情景が夕陽の中に描き出され、
まるで一幅の絵を見るようですね。
しかし、場面は急転し与一の技を敵ながらあっぱれと感極まって
踊り出した平家の武者を与一は殺傷能力の劣る鏑矢でなく、尖り矢で射たおしています。
これは義経の命だといって射殺すよう伊勢三郎が与一に伝えたからです。
この時の与一の心境を平家物語は何も語っていません。