平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



醍醐寺は源義朝の子で、頼朝の異母弟にあたる全成(幼名今若)が
平治の乱後、平清盛に召し出されて出家した寺です。(『平治物語』)

平治の乱に敗れた源義朝は、東国に落ち延びる途中、
身をよせた尾張国(愛知県)知多郡野間の
長田忠致(おさだただむね)によって殺害されました。
義朝の最期を聞いた常盤は、生まれたばかりの
牛若(義経)を抱いて、今若(全成)と乙若(義円)の手を引き、
伯父を頼って大和国宇陀郡(奈良県大宇陀町)へと
雪の中を落ちていきましたが、平家は常盤の老母を
六波羅に連れて行き、常盤母子の行方を厳しく尋問しました。
それを伝え聞いた常盤は都に戻り自首します。
常盤の美貌は京の町の人々を騒がせただけでなく、
清盛の心を大きく動かし、清盛は幼い三人の子供の命を
助ける代わりに、側室になるという条件で許しました。

当時8歳だった今若は醍醐寺に預けられ、出家して全成(ぜんじょう)と名のります。
「悪禅師とて希代のあら者なりけり」という剛毅な僧として知られ
醍醐寺悪禅師とも称され、のち法印・法眼(ほうげん)に次ぐ
法橋(ほっ きょう)の僧位を得ます。

『義経記』常盤の都落ちによると、今若は8つの春ごろから
仏門修行のため観音寺に入り、18の年に僧侶となり、「禅師の君と」いわれました。

 のちに、駿河国(静岡県東部)の富士の裾野にいて 阿野寺に入ったので
「禅師の君阿野全成」、「悪禅師」と人々から呼ばれた。としています。




仁王門(西大門)

五大力さんで賑わう金堂(国宝)
豊臣秀吉の命によって、和歌山県の湯浅から移築されたお堂です。

醍醐寺のシンボル五重塔(国宝)

不動堂

真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)

祖師堂

三宝院

南門

『吾妻鏡』によると、治承4年(1180)頼朝が平家打倒の兵を挙げると
全成はいち早く醍醐寺を抜け出して東国を目指します。

そして、石橋山合戦で頼朝が敗北した直後に佐々木三兄弟、
定綱・盛綱・高綱と箱根山中で行きあいます。

佐々木兄弟は全成を相模国(神奈川県)渋谷荘の
渋谷重国の館に連れて行き、全成はそこに匿われました。(28歳)
重国はこの兄弟とその父、佐々木秀義が平治の乱後、
相模国を通りがかった際、引きとめた相模国の豪族です。

秀義は義朝に従って平治の乱を戦い、頼朝が伊豆に配流された後も
平家の権勢におもねらなかったため、近江佐々木庄を没収され
伯母の夫である
藤原秀衡を頼って奥州に向うところでした。
父子は重国のもとで20年間を過ごし、

その間、兄弟は流人時代の頼朝に仕えるようになっていました。

重国は治承4年(1180)の石橋山合戦では平家方に属しましたが、
源氏方の佐々木定綱らをかくまったので、
養和元年(1181)8月、
頼朝に降ったのち所領を安堵され、
子息高重とともに御家人となりました

『吾妻鏡』治承4年(1180)10月1日条によると、
石橋山の戦いで
散り散りになった者たちの多くが、頼朝が当時
滞在していた
下総国鷺沼(千葉県習志野市)の宿所に集まり、
その中に全成もいました。
全成は「以仁王が平家追討の
令旨を下されたということを伝え聞き、
密かに
醍醐寺を出て修行僧を装って下向してきました。」と
語り頼朝を感激させています。


全成は同年11月には武蔵国長尾寺の別当職を与えられ、
やがて北条政子の妹
阿波局と結婚して
駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を拝領し、
そこに居住して
阿野氏を名のり、
阿野法橋と称したとされています。

阿波局は頼朝の次男千幡(実朝)の乳母となり、

全成は乳母夫として養育にかかわります。
一方、頼朝の長男頼家の乳母には比企尼の娘
(河越重頼の妻)が選ばれています。
比企尼は甥の比企能員(よしかず)を養子とし、
能員は頼家の乳母夫となり、

従兄弟同士が乳母・乳母夫となった例です。

頼家が比企能員の娘若狭局をめとり、一幡(いちまん)をもうけると、
能員は御家人中では一目おかれる存在となりました。
ちなみに比企尼は頼朝の乳母として幼い頼朝の養育にあたり、
平治の乱で頼朝が伊豆に配流されると夫とともに所領のある
武蔵国比企郡に下り、
頼朝旗揚げまでの20年間余
食糧を伊豆に送り続け、その流人生活を支えた尼です。

鎌倉入りした頼朝は長年にわたる比企尼の恩に報いるため鎌倉の中心地に
広い敷地(現・比企ヶ谷妙本寺)を比企一族に与えています。

一幡誕生の翌、正治元年(1199)、頼朝が没し18歳の頼家が
将軍職につくと
さまざまな問題が表面化するようになりました。

頼家は妻の実家である比企氏を重用し、比企能員が幕府内で
発言力を強めると
北条氏との対立が強まるようになりました。

政子は頼家の独裁権を奪い、
鎌倉幕府の政治は有力御家人
和田義盛・三浦義澄・北条時政・比企能員ら

13人の合議によって行われることになりました。
頼家が頼朝の跡を継いで僅か3ヶ月後のことでした。

また頼家の長男一幡が将軍職を継ぐことになれば比企氏の地位は
いよいよ強まるであろうと危機感をもった北条氏は、
千幡(実朝)の将軍擁立を図り、頼家や一幡を
擁立する
比企能員との対立が一層激化していきました。

こうした中、建仁3年(1203)5月、全成は突如謀反の疑いをかけられ
頼家の命を受けた武田信光に生け捕られ、常陸に配流されました。
この時、頼家側は全成の妻の
阿波局を尋問したいからと
引渡しを迫りましたが、
姉の政子が擁護し難をのがれました。
同年6月、八田知家によって51歳で下野で討たれ、翌月、
京都の東山延年寺にいた子の頼全(らいぜん)も殺されました。
全成の妻阿波局が北条時政の娘であり、千幡(実朝)の
乳母であることから、全成は頼家と比企一族、実朝と北条氏との
対立に巻き込まれたためと考えられています。
この後、比企の乱が起こり比企氏は敗れ頼家は政子に出家させられ
実朝が将軍の地位につくことになりました。
醍醐寺最大の宗教行事、餅上げ力奉納 醍醐寺五大力さん  
『アクセス』
「醍醐寺」京都市伏見区醍醐東大路町22
地下鉄東西線「醍醐駅」下車 ②番出口より徒歩約10分

JR京都駅から、JR東海道本線(琵琶湖線)または湖西線約5分で山科駅
京都市営地下鉄東西線に乗り換え、約10分の「醍醐駅」で下車。

JR奈良線・六地蔵駅、京阪六地蔵駅で
地下鉄東西線に乗り換え約5分「醍醐駅」で下車。

京阪バス22・22A系統「醍醐寺前」下車
京阪バス山科急行線「醍醐寺」下車
『参考資料』
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 田端泰子「乳母の力」吉川弘文館 
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 現代語訳「義経記」河出文庫

出雲隆「鎌倉武家事典」青蛙房 「源頼朝のすべて」新人物往来社
元木泰雄「源義経」吉川弘文館 「保元物語 平治物語」岩波書店

現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 別冊歴史読本「源義経の謎」新人 物往来社
渡辺保「北条政子」吉川弘文館 




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コメント
 
 
 
今若は彼なりに精一杯の人生を送ったのですね。 (yukairko)
2011-01-29 21:41:17
頼朝の異母兄弟たちは皆若死にの気がしていました。…幕府が落ち着き武士政権が機能するまで生き残った人はいないのかと。

でも母・常盤御前の体を張っての命乞いで、罪一等を減じられ、出家する事で命拾いした彼が早い時期から頼朝の元に赴き、働いて、政子の妹を嫁に貰って幕府の中でもそれなりの地位を保った…先見の明があったのですね。

実の弟の義経とも一線を画していたのか、討たれて滅んだ義経の兄でありながら、そののちも実朝(甥)の乳母夫として重用され…結局は頼家方による実朝方の勢力をそぐ争いの策略に負けて殺されてしまったにせよ、義経と違って後の半生を立派に生きたと言えるのでは?
 
 
 
今若は精一杯生きました (sakura)
2011-01-30 15:24:10
北条の娘と結婚した全成は妻が実朝の乳母になった関係から鎌倉将軍家の中枢に関わることになり、頼朝の側近の一人として骨肉の争いにも巻き込まれずに生き抜いてきた人物ですが、頼朝死後はそれがあだとなり、頼家側と実朝側の対立に巻き込まれ頼家に殺されることになります。
全成の妻阿波局は頼家の乳母夫の一人でもあった梶原景時失脚に関り、頼家廃位、実朝擁立にも重要な役割を担っていたといわれています。
政子が阿波局の引渡しに応じなかったのはただ妹を庇ったというだけではなかったようです。
梶原景時は頼朝挙兵の際、土肥の椙山に逃げ込み洞穴に隠れている頼朝を見逃した人物です。

それにしても乙若(義円)は平氏の追討軍と戦い墨俣川で討死、牛若は頼朝に滅ぼされ、今若は51歳まで生きながら謀反人として頼家に殺され常盤の子はみな非業の最期を遂げてしまいました。
 
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