平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




渡辺津の鎮守社である坐摩(いかすり)神社は、
もと渡辺党の本拠地(現、天満橋の西方、中央区石町付近)にあり、
広い境内を抱えていましたが、豊臣秀吉が大阪城築城の際、
現在の東本願寺難波別院(南御堂)の西側に移転させました

坐摩神社、通称ざま神社の起こりには諸説がありますが、
神功皇后が新羅より帰還の折、淀川南岸の大江、
田蓑島
(のちの渡辺の地)
に奉祀されたのが始まりとされています。

鳥居は両側に袖鳥居をもつ「三輪鳥居」様式です。





摂津国一宮 坐摩神社
例年7月21日が夏季大祭宵宮祭、 22日が夏季大祭と
末社陶器神社例祭宵宮祭、23日が末社陶器神社例祭(せともの祭)
10月21日、
秋季大祭宵宮祭 10月22日、秋季大祭が執り行われます。





北大江公園の西側、ビルの谷間に坐摩神社行宮の小さな祠があります。

かつて坐摩神社はここに祀られていました。木製の鳥居をくぐると祠の手前に
鎮座石と書かれた案内板があり、鉄柵を覗くと石が置かれています。
神功皇后が新羅からの帰り道にこの石に腰をかけたと伝えられ、
石町(こくまち)の町名の由来という。
当時、淀川(現大川)は今より川幅が広く、この辺が岸辺だったと考えられています。
熊野・住吉社・四天王寺へ参詣する人々は、11C後半になると京の下鳥羽から淀川を
船で下り、渡辺津に上陸し、四天王寺から住吉へそれから熊野へと向いました。


この付近には、熊野詣の陸の出発点の渡辺王子(窪津王子とも)があったといわれ、
熊野詣のため渡辺津に上陸した人々は、まず渡辺王子を参拝し旅の無事を祈りました。

坐摩神社行宮 豊磐間戸・奇磐間戸神社由緒 
御祭神 豊磐間戸神・奇磐間戸神
是地は坐摩神社の旧鎮座地であって、天正十一年(1583年)豊臣秀吉大阪築城に際し
城域に当る為、現在の大阪市中央区久太郎町四丁目に遷座されるまで当地に鎮座し給うた。
社傳によると神功皇后が新羅よりご帰途の折この地に坐摩神を始めて奉斎され、
また石上に御休息されたと伝えている。 今も境内に御鎮座石が残り、
故にこの地を石町と称すともいう。 平安期、熊野詣が盛んとなり、京都から
摂津・和泉をへて、熊野本宮に至る熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられたが、
淀川を船で下り最初に参詣する第一王子ともよばれる渡辺王子(別名窪津王子)社の
もとの鎮座地と云う。(坐摩神社行宮駒札より)



 
陸上交通が今日ほど発達していなかった当時、淀川は京と西国を結ぶ重要な水路でした。

この淀川河口の港渡辺津を支配していたのが水軍・騎馬軍を兼ね備えた渡辺党です。
これまで渡辺津は、江戸時代に八軒家とよばれた現在の天満橋付近にあったと
考えられてきたましが、最近の考古学の発掘成果ではそれよりも西の
天神橋周辺とする説が有力となっていいます。

『源平盛衰記』は、遠藤盛遠(文覚)が袈裟御前を見初めたのは、
渡辺橋をかけた橋供養の日で
あったとドラマチックに語っています。
現在、北区堂島川に渡辺橋がかかっていますが、
当時の橋は現在の橋とは
異なる位置にあり、天満橋と天神橋の間にあったと
推定されています。
度々の洪水のために渡辺橋は流され架けかえられたと思われます。
 

現在の天満橋付近の風景。
渡辺党には、源姓渡辺氏と遠藤姓渡辺氏があり、源姓渡辺氏は嵯峨天皇より
六代にあたる 綱を祖としています。渡辺綱といえば頼光四天王の一人とされ、
大江山酒呑童子退治や一条戻り橋で鬼の腕を斬りおとした説話で有名です。
頼光の母が嵯峨源氏俊の娘であった関係で、綱は頼光に従うようになり、
渡辺に本拠地を構えて渡辺氏を名のり、代々、競(きおう)・唱(となう)のような
一字名を称したため、「渡辺一文字名の輩(ともがら)」といわれました。

頼光の子孫である源頼政の時代になると「渡辺一文字名の輩」の面々は
彼の配下として保元の乱や平治の乱で戦い、頼政軍の主力は彼らでした。
『平家物語』では、治承4年(1180)5月の宇治川合戦、
文治元年(1185)3月の壇ノ浦合戦などに渡辺氏の活躍が記されています。

遠藤姓を名のる渡辺氏の名前は、二字名であり、平将門の追討使となった
藤原忠文を祖とします。平安時代になると源姓渡辺氏と姻戚関係を結び
両者は大きな勢力をきずきました。一門からは頼朝挙兵に深くかかわった
文覚を出し、四天王寺の執行(しぎょう)も出ています。
執行とは寺の事務・法会をつかさどる役職をいう。
源姓渡辺氏、遠藤姓渡辺氏は伝統的に弓矢の名手の家柄であったため、
メンバーの多くが渡辺に基盤をもちながら、一方では滝口として
宮中の滝口近くで宿直番(とのいばん)として天皇に仕えました。

坐摩神社は、11C以降、遠藤氏が世襲し4人の長者(神主)が管理していました。
坐摩神社の長者の一人の遠藤家国(文覚の甥)は、文覚の指図で
頼朝の挙兵に参加しています。その後、家国は頼朝・北条氏に
近臣として仕える一方、坐摩神社の神主職もつとめていることから、
鎌倉と渡辺津を船で往復していたと思われます。
のち北条氏と姻戚関係を結んだ遠藤氏は、北条氏の瀬戸内海海上支配の
一翼をになうこととなりますが、
秀吉が大阪城を建設する頃には歴史の表舞台から姿を消しました。
渡辺の津(義経屋島へ出撃)  
『アクセス』
「坐摩神社」大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号(伊藤忠商事と南御堂の裏手)
大阪市営地下鉄本町駅15番出口より西へ1つ目の角を左に折れ徒歩3分
市営地下鉄本町駅21番出口より東へ2つ目の角を右に折れ徒歩3分

開門時間  平日7:30~17:30 土日祝日 7:30~17:00

「坐摩社行宮」大阪市中央区石町2 
京阪電車「天満橋」駅、地下鉄谷町線「天満橋」下車、西へ徒歩約7

『参考資料』
加地宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社 河音能平「大阪の中世前期」清文堂
「大阪春秋」(№135)新風書房 「歴史を読みなおす」(武士とは何だろうか)朝日新聞社 
「検証・日本史の舞台」東京堂出版  現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文堂
 
 



 
 



 
 
 





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コメント
 
 
 
交通の要衝を支配下に置けば勢力も拡大しますね。 (yukariko)
2011-01-15 00:31:14
京の都から熊野詣をするとしたら…今の交通を頭に思い浮かべて奈良を経由して吉野から川伝いに南下して行くのかと勝手に思っていましたが、それだと峻嶮な山越えになるから大変すぎますね。

まずは草津から淀川を下り、渡辺の津に上陸して四天王寺→住吉神社→熊野と大廻りのようでも平地を歩いて長い日数をかけて参拝したのですね。
それにしても昔の人はとても健脚!

交通の要衝で物流の拠点を本拠地として支配した渡辺党は武力と資金力も豊かだったでしょうから都の貴族も配下として当てにしたでしょうね。
一族は弓矢の名手が多い以外に、交渉事も上手だった?
四天王寺の執行など事務方のTOPも勤めた一族なら算用・交渉が得意だったのでしょうし、蛮勇一途ではないのも貴族たちには当てにされたかも。

貴族と結びつき、力のあった渡辺党も時代の波に埋没し、源氏や北条氏の家臣となって違う土地に移住したりしていつしか弱体化したのですか?

京も秀吉の政策で京極に寺が集められたり移転させられた名残で、お寺がもう無いのに町名が「元誓願寺」などと付いていたりしますね。

大阪も石山本願寺が立ち退いた後、権力者となった秀吉の権力の象徴として作った大阪築城の余波を被って、幾つものお宮やお寺が本来鎮座していた場所から移転させられたのでしょうね。

歴史を勉強される方にとっては、迷惑で手間の掛かる事でしすね。
 
 
 
渡辺党の活躍は南北朝時代まで続きます (sakura)
2011-01-15 16:31:11
貴族と結びつき、力のあった渡辺党も時代の波に埋没し、源氏や北条氏の家臣となって違う土地に移住したりしていつしか弱体化したのですか?

鎌倉時代、遠藤姓渡辺氏・中でも文覚の系譜が当初より鎌倉幕府と結びつきが強く頼朝や北条氏の近臣であったと同時に渡辺津の管理(関料もとっていたことが史料にみえています)や京都警固にも活動しています。
これに対してこの時代閉塞していた源姓渡辺氏の多くが南北朝時代になると南朝方につき後醍醐天皇に仕えた渡辺照が難波荘(難波)の地頭職に任命されていたことや南北朝時代には孤島であった梅田曽根崎を開発したのは遠藤氏であると伝えられています。
同じ時代都島に渡辺党が所領をもっていたことなど大阪における渡辺党の足跡は平安時代から南北朝期まで辿ることができます。
現在の梅田界隈や難波が開発されるのは明治時代になってからのことですが、もとを辿れば南北朝期に渡辺党が関わっていた土地だったのです。

織田信長が畿内を統一しようと義昭を擁立し上洛すると、松永久秀・三好義継は降伏、三好三人衆は阿波に逃れます。やがて義昭と信長の不和が表面化すると信長に反感をもっていた本願寺は石山に軍勢を集め、ここに松永久秀・三好義継も加わります。
反信長勢力の中心として義昭は近江浅井・越前朝倉氏・毛利氏などとも連絡をとり信長は包囲され窮地に陥りますが、次々と反対勢力の浅井・朝倉氏を倒し三好義継を殺します。この時、三好義継に従っていた渡辺党の渡辺吉も自害します。
やがて本願寺は信長の講和策を受け入れ顕如は大阪を去ります。
こうして摂津を掌握した信長も明智光秀の謀反に倒れ、その後は秀吉に受け継がれます。秀吉が大阪城を築城する頃には渡辺氏は大阪を去り奈良に移ります。
 
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